Monday 27 June 2016

台湾映画『太陽の子』を観てきた―台湾原住民の問題を知るきっかけに

先日、台湾映画『太陽の子』の上映会に行ってきた。これまた台湾文化センターにて。朝日新聞を経て現在フリージャーナリストの野嶋剛さん大絶賛で、彼の力があって日本での上映が叶った。今後も色んな場所で順次上映されていくようだ。

この映画は台湾原住民・アミの家族とその村の物語であり、台湾社会における原住民をめぐる様々な問題を、穏やかなタッチでありながらも鋭い視点から描いた作品だ。故郷の村に子ども二人と父親を残し、台北で働いていた子どもたちの母・パナイ。彼女は父親の病気をきっかけに帰郷し、耕す人がいなくなりホテル建設のために売られようとしていた自分たちの土地を蘇らせようと東奔西走する。実話を基にした作品で、2013年にはパナイのモデルとなった人物の息子であるレカル・スミさんが『海稻米的願望』というドキュメンタリー映画を制作している。それを観て感動した映画監督の鄭有傑さんがレカルさんとともに新たに映画を撮ったといういきさつ。

映画を観る前に、台湾での原住民たちが置かれている状況や、原住民の土地をめぐる争議についてちょっと知っておいた方がいいかもしれない。

漢民族が本格的に移民してくる前から、原住民たちは長い間台湾で暮らしてきた。入れ代わり立ち代わりする支配者とそれに伴う社会の移り変わりの中で、本来原住民が暮らし、耕し、生命をつないできたはずの土地は、彼らの手から無残にも奪われてきた。(もちろん植民地支配した日本も無関係ではない)1980年代以降、「土地を返せ!(還我土地!)」という原住民たちからの訴えが上がり、近年でも度々問題視されてはいるものの、台湾人口の2パーセント前後でしかない原住民たちの声がないがしろにされることは少なくない。映画でも、土地の所有者であるはずのおばあさんの登記書が「台風で飛ばされた」という理由で役所から忽然と消え、その所有が認められず、無理やり公共工事を進められてしまうという出来事がある。本当に飛ばされたというなら杜撰にもほどがあるし、実際は嘘八百で単に土地をとりあげて国有にしたかっただけである。しかも、こういう出来事はフィクションだけの話ではない。私は四年前に花蓮の原住民の村にお邪魔し、そこで土地問題に取り組むご年配の夫婦にお会いした時も同様のお話を聞いた。企業側と役人が組んで土地の所有権を放棄させ、奪い取り、コンクリート工場を建て、周辺の環境も汚染する。まったくもってむごいしせこい。

とはいえ、先祖代々受け継がれていた土地を泣く泣く売ってしまう人たちがいるのも事実で、映画の中の風景には、道路わきなど至るところに「土地売ります」という看板が立てられている。田舎では仕事がないから、若い人たちは都会へ働きに出る。そうして田畑を耕す労働力が失われ、土地は荒れ果て、ホテル建設を目論む資本を持った事業主に売りさばくことぐらいしか、残された人たちには手立てがない(生活のこともあるしね!)。でもそれじゃあいかん。ここは私たちの土地だ。私たちの手で稲穂に満ちた田んぼをよみがえらせるのだ!と立ち上がるのがパナイであり、パナイの訴えに心を動かされた村の仲間たちである。彼らも最初から賛同していたわけではない。荒れ果てた土地に稲を植えるためもう一度耕すにはそれなりに資金もいるし、壊れた水路の整備をすることから始まり、作業は生ぬるいものではない。めでたく米が収穫できたとしても、それが売れるという保証はどこにもない…いろんな壁があり、もちろん反対する人も出てくる。無理だといって一蹴していた人びとを、パナイがアミの言葉で涙ながらに説得する姿。彼女の熱い訴えに、徐々に場の空気が変わっていく様子が映像からひしひしと伝わってきて、つい私まで涙がこぼれる。

映画を見終えて、台湾の原住民の暮らしと自然との関わり方、アミニズムのような信仰、原住民とアイデンティティの関係について改めて興味をひかれた。同時に、以前読んだ台湾の蘭嶼島に暮らす原住民・タウの作家であるシャマン・ラボガンさんの小説と、イベントで聞いたシャマンさんの言葉を思い出していた。シャマンさんも故郷を出て台北に進学し、卒業後もしばらくタクシー運転手などをして働いていたことがある。その後、体調を崩すなどして家族とともに故郷に戻ることを決意。蘭嶼島に戻ったとき、タウの男でありながらタウの男としての生きる技術(木を伐り、船を作り、漁をする等々)をなんら身に付けられていないことを思い知り、失ったアイデンティティを取り戻すためにひたすら海に潜り始める。海という大自然との共生の始まりだ。シャマンさんの小説には彼自身が海とともに暮らす日々が描かれており、限りなくノンフィクションに近いフィクションの物語である。一方、『太陽の子』ではパナイの娘・ナカウが、陸上の試合を前にして自信を失いその場に座り込んでしまうというシーンがある。そこでパナイはナカウに強い口調で何度も「あなたは誰?」と問う。ナカウは一瞬戸惑ったかのように見えたが、ぼそぼそと、それから徐々に声を張り上げて答えた「パンツァー!(アミ)」 そうして何かの決意に満ちた表情を携えナカウはスタートラインに立ち、走り出す。

どうやら自分はどうしてもアイデンティティに関わる話に興味がいってしまうようで、こういう人物たち、あるいは映画のワンシーンに出会うと、私はなんとなくうらやましいと思ってしまったり、なんとなく感動してしまったりする。台湾人が台湾人アイデンティティを言うときにも通ずるが。なぜ彼らがそうやってアイデンティティを切望したり、自己を何らかの民族であると意識することで胸を熱くするかというと、彼らとは異なるアイデンティティを持つ「他者」の存在のために不利な立場に置かれるという切羽詰まった現状があるからである。そこにはある次元での圧倒的な力関係の差があり、優位な方はそうでない方をその次元に取り込んで、各々が実は異なる価値観や誇りを持った「他者」であるという事実を包み隠そうとする。私たちは仲間なんだと優しい素振りで声を掛けるが、そこに対等な関係性があるとは限らない。いつの間にか相手の論理でゲームをさせられて、流れについていけずに置いてけぼりを食らうのがオチ。そういう状況で敢えて境界線を引くのは、勇気もいるけど自信にもなる。輪郭を描いて、自分が何者であるかという意識を強くすることによって、むやみやたらと自分たちに有利なゲームに取り込もうとしてくる「他者」に抗うことができる。原住民の問題だと、境界線の向こうにあるのは「本省人」とか「漢民族」とかで、台湾が意識する先には中国という存在がある。でもそんな分かりやすい民族とか国家の対立構図だけではなくて、もっと普遍性のある問題をあぶり出すことにもなる。それはあまりに進みすぎた経済発展最優先の資本主義の在り方であったり、多様性という衣をまとって統合しようとしてくる政府の文化政策であったり、いろいろである。私はナショナリストではないし、どちらかというとナショナリズムには懐疑的なところがあるけど、軍事力なり経済力なりなんなり、己の持っている資源のでかさに物言わして「他者」を従わせようとしてくる奴らに対しては、ナショナリズムでもなんでもうまく活用して対抗してやらんと、と思うところもある。一方で、そういう政治に深く絡みそうなアイデンティティの話とは別に、単純に、自分が何者であるかということを強く意識できることは自分の力になるし、なにものでもない不安定感をやわらげ、地に足付いたような感覚にさせてくれるってことで、自分にもそういうのがあれば、なんて思ってうらやましさが湧いたんだと思う。それは気休めでしかないんだろうけどね。

先に「シャマンさんは失ったアイデンティティを取り戻すために」と書いたが、アイデンティティって取り戻すとか見つけるとかいうより、選ぶとか決意するっていう動詞との親和性が強いように私には思える。自分の存在の方向性を選び、そちらに向かうことを決意する。決意すると視界がすっきりして、徐々に現状を打破する方法が見えてきたりする。何かに抗いつつ、自分のあるべき姿を見定めた人のパワーはいつもすごい。私にはこれが足りないんだよな…なんて。

ナカウは最後に台北の学校へ進学する道を選ぶ。これから都市へ出てゆく彼女は、パンツァーの心を持ち続けられるのだろうか。映画には関係ないけど、私には少し気になるところである。

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