Monday 27 June 2016

今日も明日も負債負債

栗原康『現代暴力論』を読みながら日本の奨学金制度と自身が今後二十数年間かけて返済していかねばならない600万近くの負債について思いをはせている。貸与型の奨学金(そもそも奨学金と呼びたくないけど)なんて若者に「借りたんだから返せよ、まっとうに働いて返せよ、お前が返さないと次の若者が奨学金をもらえないんだからな」という負い目(社会一般では責任感とも言う)を感じさせることで成り立っているようなもんだ。実際成り立っているのかどうか怪しいところで、払えなくなってしまった人たちが社会の闇の中に消えていってるのも事実。極端なことを言えば、日本の奨学金制度はあくまで社会を回していくためだけ、再生産のためだけにある。決して一人一人の若者の夢や希望のためにあるんじゃない。そうやって貸与型のサイクルが成り立っている限りは、学生らが一応無事に学を修めて職にありついて何かしらの価値を生んでは対価としての賃金を得、その金で返済をしているということであり、世の中のサービスも経済も回りつづける(はず)だし、給付型の奨学金制度を整えるためにわざわざ工面して財源を組まんでよいのだから、政策決定者にとっては万々歳である。「え?借りたお金は返すのが常識でしょ?てゆか貸与型でも奨学金制度があるからこそ、貧乏でも学校に通えて教育が受けられるんだからそれに越したことないじゃん」っていう声が聞こえてくる。思うに、それが「奨学金」という名を借りたただの「借金」であるにも関わらず、進学のためのメジャーな経済的支援制度として普及しているところがあくどい。最初からはっきり借金と言ってくれればいい。高校三年の時、「普通はみんな奨学金受け取るものだから」という理由で申込書を書かされた。うちの家はそこまで経済的に厳しいわけでなかったのに。そこで申し込まなければよいものを、自分の頭で物事を考えることを知らなかった当時のわたしは、それが普通だからという理由で受け入れた。高校三年生のわたし。言われた通り勉強するだけのお受験脳だった。今は卒業して働きはじめ、毎月きちんと返済しているが、今後日本にこの制度がこのまま続いていくことには反対だ。借金を背負って勉学したところで、それを返すためにはそこそこ以上の企業に就職して働くことが必要になってくる。本当にやりたいことが別にあったとしても、負債があるから好きにできない、今の会社を辞めたいけど辞められない、払うまでは結婚も子どもも無理…身軽でない。一体何のために金を借りてまで大学を出たのか…という思いに駆られることもあるかもしれない。大学自体、ますます大金をはたいてまで通うほどの価値のある場所ではなくなってきている気がする。企業人育成のための大学ならいらない。だったらもうそのまま社会に出て働けばいいじゃない。なんだか話が脱線してきたが、わたしは借金を踏み倒すほどの勇気はないのできちんと返しますが、その負債がために自由に好きなことができないなんてことにはならないようにする所存です。以上。

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