Sunday 3 June 2018

台湾映画『軍中楽園』を観てきた

しばらく忙しい時期が続いていてやっと一段落したので、今日は久々に映画館へ足を運んだ。
台湾映画『軍中楽園』をユーロスペースにて鑑賞。字幕翻訳は神部明世さんだった。
ネタバレもありの感想は以下。

冒頭、浜辺に整列させられた羅保台のぎこちないしかめっ面。それは愛の何かも女の体も知らず、我が身に降りかかる"運命"の残酷さに気づく前の青年の姿だった。

序盤はなぁんだ歴史ものにしては意外とメロドラマの延長みたいなライトな映画だなと思わせておいて、徐々に不穏な空気が漂い始める。映画に出てくる月下美人とは、楽園にいる女たちのことでもあるのだろう。花言葉は儚い美、儚い恋。美しい花弁を一枚一枚はがしてゆけば、楽園の外からは決して見えない彼女たちの胸の内や過去が露わになる。女は生き延びるために自分にも他人にも嘘をつかねばならない。「最低層の男よりも卑しい」身売りする女性を蔑むときの、ステレオタイプでありがちな台詞。それを口にするのが他でもない女性本人であるとき、なんとも悲痛に、皮肉に聞こえることだろう。内面化されたイメージは彼女にとって拭い去れぬ“汚れ”となり、それをどうにか振り払うように、無邪気の仮面をかぶる。

一番胸が痛んだのは、老張が母を思い叫ぶシーン、許嫁を思い阿嬌に手を下してしまうシーン。そして二人にとってあり得たかもしれない幸せがスクリーンに映し出されたひととき。もう戻らないということ、それは失われたのだということを思い知らされることほど、人を絶望の淵に追いやるものはない。「大陸になんて戻れやしない」その一言は致命的だった。致命的な一言といえば、「初めての相手は…」とか言い残して部屋を飛び出しやがった羅保台にはまじでお前なんやねんとどついてやりたくなった。ひどい男を通り越してある種の情けなさを感じる。覚悟ができていないのは男の方だ。

そういえば、老張が羅保台に自分の来歴を話して聞かせるシーン、母との別れ、故郷への想いが一通り吐露されたところで老張が確か「母さん」だったか、母のことを大声で呼ぶシーンがあり、その直後に母の返事の代わりに砲撃の音がし、羅保台が思わず「幹你娘(FuXX your mother)」って言っちゃうんだけど、それを聞いて老張もまた故郷の言葉で暴言を吐いて、羅保台がその発音を真似して悪態ついて……なんかこう、日本語には訳しきれない部分だなと思った。訳すと全部が全部「ちくしょう」とかになっちゃう。

監督はパンフレットのインタビューで、「芸術と娯楽の中間にあるような映画が撮れないか、いつも考えています」と述べていた。本作を見た上では確かに思惑通りの出来上がりなのではという印象。歴史の語りから意図的に取りこぼされてきた831「軍中楽園」、そして「侍応生」と呼ばれた慰安婦の女性たちの存在。それに加えて国民党軍の老兵が抱えて来た苦悩と、映画に詰め込まれたテーマはこれでもかと重い。それが、どこかこう、やわらかいような軽やかなような空気感というか、多少クスっとしても許される余地が、いい意味で娯楽性が、どこかに残されていたように思う。妮妮の歌声、のしかかる男を尻目に本を読む女のたくましさ、手錠でつないだまま女子トイレにお供する羽目になる羅保台、国軍慰労公演のステージパフォーマンスに浮かれる男たち(まさに娯楽!テレサテンと白嘉莉が登場)……。まあ、それら休閑があることによって、楽園の悲劇が際立ってしまうわけなのだけれど。

歴史を描く、という意味では浅くなってしまったのかもしれないけど、その結果、映画館に足を運ぶ老若男女からすれば比較的見やすかったのかもしれない。この映画の主題だけにとどまらず、いまは「歴史に名を残すのみ」となった彼ら、彼女らの物語をより多くの人々につたえるためには、時にシリアスを押し付けるだけではだめで、さじ加減が重要なのだろうと思った。それが監督の苦戦しているところでもあるのだろう。

台湾の友人たちはどう観たんだろう、気になる。久々に連絡を取ってみようか。