Tuesday 31 May 2016

ボクシング日記:走ります

ボクシングの記録。あなた一体何目指してんの?と最近よく聞かれる。わたしもよく分かりませんがとりあえず楽しいので週一くらいのペースで続けている。でも週一じゃ飽き足らずジムに通おうかと考え始めている今日この頃。そうして調べてみて分かったのは、ボクシングジムの入会費が結構高いってこと。だいたいどこも18000円とかで、二万近くする。二万か…それに加えて月謝がおよそ8000円である。二万は最初だけとしても、つい先月字幕翻訳の講座に通い始めてその費用を払うのにヒーヒー言うているというのに、これ以上臨時的な出費がかさむのは控えたい。というかいざ通うとなるとやっぱりシューズとかグローブとかいろいろ揃えたくなるだろうしますますお金がかかるよな…まじおれ何目指してんの?プロなるの?という感じになるのでボクシングジム通いの話は一旦なしにした。
でも週一のボクシングの会だけじゃ体力もつかへんし、もっと動けるようになりたいな、ということで自宅の周りをジョギングすることにした。何通りかルートを走ってみた結果、ちょうど1キロくらいになるルートを見つけたので今後はこれでいく。先週から初めて、当初は一周すらままならず、己の基礎体力のなさに悲しんだのだが、一週間経ってみると二周走れるようになっており、今週の目標は目指せ4キロ!である。人間ってすごい。ただの万年文化部女子が徐々に動ける万年文化部女子になりつつあるぞ!
ところで先日、はじめて映画『ロッキー』を観たのであった。ボクシング映画と言えばこれ、みたいなところあるし、ボクシング始めてからあのテーマ曲だけ度々脳内再生されていたので、まあとりあえず観とくか、という感じになって観た。ロッキーがラップみたいにぼそぼそと喋り続ける映画だった。よく芸人なんかが物真似しているロッキーが恋人の名を呼ぶ「エイドリアーン!!」っていう名シーンを、初めて本物がやっているのを見てこれか~!ってなったりした。以上です。

Friday 20 May 2016

ボクシング日記:バンテージを手に入れた

先日、五回目のボクシングの練習に参加した。
前回より二週間空いた分体力が落ちている気がする、やっぱり継続的に運動するのが大事なんだろうけど、仕事から帰るともうできるだけ早く飯食って寝たいという気持ちが強くて、継続的な運動する気持ちがいつも負ける。そんなだめなわたしにもかかわらず、師匠ことボクシングを教えてくれている友人が、プレゼントと言って「バンテージ」をくれたのである。

「バンテージ」ってあれです、ボクシング選手が素手にくるくる巻いてる包帯みたいなやつです。これまで練習の時に友人がなにやらくるくると手に巻き付けている様子を見ては「プロっぽい」と思ってほんのり憧れていたのですが、それが今やわたしの手にもくるくる巻かれております。拳を守るために巻くもので、ボクシングやる人は必ずつけるアイテムっぽい。早速師匠から巻き方を教わるものの、これが意外と覚えられない。手首いくかと思いきや中指と薬指の間から通したり、また手首に戻って手の甲をぐるぐるしてまた指の間…すぐにどこまでいったか分からなくなるのであった。

しかもこれ人によって巻き方が違うらしく、たとえば、第二関節から指の付け根までの拳が当たる箇所をガードするためにバンテージを折り返して重ねる際の、重ねる部分の作り方が師匠のやり方とネットで紹介されてるのとでは違った。たとえばこちらに紹介されているのは、手首から先に巻き始めて、そのまま続けて拳のあたる部分で何回か折り返して重ねるやり方。わたしが師匠に教わったのは、先に折り返し部分を作ってからそれを拳にのせて巻き始めるというやり方。これもしかして個人のセンスの見せどころでは。もちろんまずは師匠のやり方でやらせていただきますとも。

ボクシング、むずかしいなあと思っていること。
・右腕の脇のしめ方が甘くてすぐ緩む
・足のリズム感
・足→腰→腕→拳の連動

ストレートを打ったあと、脇しめるのを忘れちゃって全然ガードできてない。
足のリズム感というか、パンチ打ってる時って足がどうなってんのかあんまり意識できんくてステップが上手にとれない。そういえば昔ドラムに憧れて挑戦したときも腕と足とで違う動作をするのが無理だと気付いて一か月くらいで断念したのを思い出す。なわとびは、この足のリズム感、ステップのとり方をつかむためにやってるメニューでもあるそう。小学校のころとか体力測定でやらされた反復横跳びも、左右へ素早く移動する練習ができてよさそう。ボクシングってただ拳だけ使う運動ではないんだと気づき始めたところでさらなる課題は、足首のバネのちからを腰、腕へ伝えて拳の先で力を解放するっていう、口では言えても実際やるのがむずいやつ。
一週間経ってまた明日練習楽しみである。

Wednesday 18 May 2016

『台湾新電影時代』を観てきたけど、今まで思ってたほど侯孝賢の映画が好きでもないことに気づいた

4月下旬から新宿のK's cinemaで「台湾巨匠傑作選2016」と題して台湾ニューシネマの作品と関連する台湾映画がいくつか上映されている。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と楊德昌(エドワード・ヤン)の作品を中心として、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)、李安(アン・リー)、魏德聖(ウェイ・ダーション)の作品なんかが観れる。勇んで三回券を買ってあったものの、いろいろあって行きそびれていたらもう上映が終わっちゃった作品とかあって残念なのだが、幸い、一番気になっていた『台湾新電影時代』(2014年)を今日、観ることができた。これは台湾ニューシネマと呼ばれる作品群を撮った監督や映画にゆかりのある人たち、あるいはそれらに深い影響を受けた海外の映画人たちにインタビューを行い、台湾ニューシネマ再考の手掛かりにするという内容のドキュメンタリー映画だ。台湾人の謝慶鈴という監督が撮ったもので原題は《光陰的故事─台灣新電影》。インタビューを受けた人物の中には、日本からだと侯孝賢の『珈琲時光』に出演した浅野忠信や、映画監督の黒沢清、是枝裕和がいる。タイ、フランス、中国、香港といった台湾外の人たちから台湾ニューシネマがどのように観られてきたのか、ということが知れておもしろかったが、特に気になった話が一つある。

中国の映画監督王兵と楊超の二人が登場するシーンで、彼らが台湾ニューシネマの作品と、中国の第五世代の監督たちの作品とを対比させながら語っている姿がある。彼らは第五世代として張芸謀と陳凱歌を上げ、特に王兵(の方だったと思う)は陳凱歌の『覇王別姫』と侯孝賢や楊德昌らの作品とを比べて以下のような見方を話していた。曰く、『覇王別姫』は“物語”を描いた作品であって、あの映画には“台詞”しか映されていない、そこには“人”がいない。一方で、台湾ニューシネマの中には他ならぬ“生身の人間”がいると。それに対し楊超が、じゃあ覇王別姫の登場人物である蝶衣や段は人じゃないっていうのか?と半ば食い気味で問いかけつつも、確かにあの作品は歴史主義に偏りすぎている、と言う。そして、これらこそ第五世代の監督たちが直面せざるを得なかった限界である、というような。

『覇王別姫』はわたしが好きな中国映画の一つだ。まだ中国語なんて勉強したことないうちから偶然WOWOWかなんかで観たことがあって、当時、海外の映画=ハリウッド映画だった高校生のわたしの映画観がバッコーンと打ち砕かれたような経験をした覚えがある。何度観ても飽きず、いまだに泣きながら観てる気がする。泣けるから良いって言いたいわけじゃないし、むしろ最近映画とか小説の広告でよくある「これは泣ける!」みたいな謳い文句はむしろ嫌いだし、できれば感情の安売りはしたくないんだが。ともあれ、好きな映画だったし、わたしには登場人物がいつでも“生身の人間”として迫ってくるように思えてたから、王兵の言ってたことってどういうことやねんろ、と気になった。言うまでもないが覇王別姫は歴史ドラマだ。民国政府時代、抗日戦争、国共内戦、中華人民共和国の成立、文化大革命というように、歴史の教科書に出てくる時代区分できれいに切り分けることができるように場面も移り変わる。それが中国という土地の近現代史を主題にしていることが一目で分かる。社会情勢が変わり、京劇とその役者たちも時代の波にあっちゃこっちゃへと流される。たしかに、そう考えたら人物はでっかい歴史を語るための駒のような扱われ方されててかわいそうかも。

6本の指をもって生まれた蝶衣が、母親にその6本目の指を切られて劇団に預けられたことは、後から考えれば彼が女形の役者として生きていく道を選ぶことを象徴的に示すための“去勢”の儀式に思える。でも彼の指を切ったのはあくまで産みの母親の意思であって、そこには自身の力では抗いようのない、生まれながらにして背負わされた「宿命」のようなものがあることを感じさせる。それこそ覇王別姫に登場する人々を逃れようのない結末に向かわせるものの正体であって、その悲哀が観ている者の胸を打ち、時に涙させる。

アヘン絶ちをしようとして発作に苦しんでいる蝶衣を菊仙が抱えてあげるシーンが特に好きである。蝶衣は自分を棄てた母親のことが忘れられないらしく、うわごとで母を呼びながら寒い寒いと言う。それを菊仙が抱きかかえるようにして布団かなんかを巻いてあたたかくしてあげようとする。流産して母親になれなかった菊仙が、まるで母親になったように蝶衣を我が子のようにして抱いている。ずっといがみあっていた二人がこのシーンだけでは互いを求めあっているかのようにも見える。菊仙は女郎上がりなので蝶衣の実の母とも共通点があるし、本来ならこの二人は、自分が必要としながらも欠いているなにかを補いあうことのできる者同士なのでは?この二人実は仲良くなれるのでは?という気持ちになる。でも二人の間には段という男がいて、段をめぐって敵対が続くんだな。

「覇王別姫には台詞しか映されてない」の意味を理解したくて作品をまた観てみたが、ぐいぐい映画の世界にもってかれて、本題を忘れていた。そうなってふと思ったのは、侯孝賢の映画やったらあんまりこうはならへんよな、ってことだった。最新作の『黒衣の刺客』なんて、もはや映像を観ているというより、とことん区切られた細切れの絵か写真かを連続的に観せられているようで、一つ一つの画面を切り取ると、それは絵のように味があっていいのかもしれないんだけど、映画として観るとわたしにはどうしても退屈だった。ドキュメンタリーのインタビューの中でタイの映画監督が、侯孝賢の映画は眠くなるって言ってたけど「ほんまそれやで!」って思ったのは台湾映画好きな人でもわたしだけじゃないはず。そうこう考えていてふと気づくのは、自分が自分で思っている以上に映画に対してドラマ性を求めてるってことだ。だから結局、侯孝賢よりも楊德昌の作品の方が好きなんだよなおれは。芸術性とかじゃなくて好みの話です。楊德昌の『カップルズ』が好きでDVDを手に入れたいとずっと思っているんだが、アマゾンで観ても中古が数万とかで目が飛び出そうになった。今回の台湾映画イベントでも上映作品にも入っておらず残念極まりない。版権の問題とかややこしいことになってるんだろうな…。個人的にはあの映画は張震がみじめに泣く羽目になるところが見どころやと思っています(なんて意地の悪い)。

なんか台湾映画の話するはずやったのにほとんど覇王別姫の話になってるやんな。

あと、細かいことを言うのですが、字幕で「本省人」を「内省人」と間違えていたり(冒頭で詫びられてた)、林懐民のインタビューの中で彼が「郷土文学」と言っていたのを「国民文学」としていたりというのが気になっちゃいました。内省人なんていう凡ミスはともかくとして、限られた文字数の中で台湾にさほど詳しくない観客にも分かりやすく違和感なく観てもらうために字幕を考えるのはめちゃムズカシイことなんだって、最近字幕翻訳の勉強してて日々感じるんだけども、改めて痛感した。「郷土文学」って言われても、台湾文学をかじったことがなければパッとイメージできないだろう、ってことで「国民文学」になったんだろうか。でもむしろ、「国民」って言葉から短絡的にイメージされるものって、郷土文学と呼ばれてる作品の中身からはかなり遠い気がするんだけど。中華民国の文脈への帰属意識から書かれたものではないし、総じて農村の暮らしだったり、低層の人々だったりにスポットを当てて、台湾というふるさとに根差した人々の生活が書かれた小説と理解しているので、郷土文学のままでいいんじゃないかと思ったりしたんだが。なんで「国民文学」にしたのか字幕翻訳者さんにたずねてみたいです。

Monday 9 May 2016

時空を超えた父親探しの旅≪1989一念間≫の話

台湾ドラマ≪1989一念間≫がヤバイ。
先シーズン、三立テレビ(三立都會台)の日曜夜10時放送枠(日本だと11時)の作品≪愛上哥們≫にハマって、この時間帯のドラマはだいたいラブコメ要素が強くて気楽に観れていいなあと思っていた。今シーズンのご存じアーロンが出演している≪後菜鳥的燦爛時代≫もザ・アイドルドラマという感じで、あからさまな胸キュン要素がたっぷり詰まっており、そういうのが好きな人はたまらんのだろうな、おれは白目だけど。とかなんとか考えながら観ていた(それでも観る)。
とはいえこれだけじゃあなんかつまらんな、他のも観てみよう、と思い立ち(暇人か)、日本植民地時代を生きた画家たちを題材にした歴史ドラマ≪紫色大稻埕≫に手を出してみるも、なんか刺激が足りず、懲りずに他のも観てみようってことで何となく選んだのが≪1989一念間≫という作品。以下、導入部分をさらっと紹介。

第一話の冒頭、いきなり上裸でプールに飛び込むのが主人公・陳澈。26歳の若さで投資信託会社の次長を務める、一見して勝ち組系のさわやかプチマッチョイケメンである。顧客との契約ではリスクを回避できるよう機転を利かせ、会社を危機からさらっと救い、よその会社からもヘッドハンティングされるほどの優秀ぶり。ところが彼には“父親がいない”というコンプレックスがあった。
母からの電話を受け、病院に駆け込んだ先には、認知症を患い階段から転げ落ちたという祖父の姿があった。目の前のものと頭の中の記憶の区別が定まらなくなってしまった祖父は、謎めいたうわごとをしゃべり出す。
―「もうすぐクリスマスだ」「行かないと」「いや、もう過ぎたんだ」「李進勤を呼んで来い」「あいつが責任をとるんだ」「いやそうじゃない」「雅娟は会いたくないと言ってる」「この子を産むと言ってる」「すまないと思ってるんだ」「お前と李進勤を引き離すべきじゃなかった」「お前を許してやればよかったと母さんが」「一人で阿澈を」「母さんは後悔してるんだ」―
陳澈は過去に幾度か母に対して父親のことを尋ねたことがあったが、そのたびに鋭い剣幕で遮られ、何一つ答えを得られることはなかった。祖父が口にした“李進勤”という男の名は、自分の実の父親のことではないのか。今一度母に問いただすも「父親は死んだ」の一点張り。感情的になった母はつい「これ以上この話を続けるようならもう顔も見たくない」と怒鳴りつけてしまう。息子も息子で「どうせ父親がいないんだから母親がもう一人いなくなっても同じこと」と言い返してその場を後にする。
バイクを飛ばしながら、母と祖父の言葉を反芻して色んな憶測をめぐらす陳澈。生憎の雨で、激しい雷まで鳴り始めた。バイクがトンネルに入り、陳澈のいら立ちがいまにも爆発しそうなころ、不意に目の前にまぶしい光が射し、陳澈はバイクごと転倒してしまう。
どれだけ気を失っていたか、目が覚めてみるとバイクが消えていて、激しかった雨も止んでいる。通りがかった女の子に携帯を借りようとするも「携帯?なにそれ?」とトンチンカンな反応をされる始末。みんなヘルメットをかぶらずバイクに乗っているし、見慣れない住所に見慣れないアイドルの写真。VISAカードもまだ使えない?!「あんた、外国から来たんでしょ!」と言われてついに「まさか…」と恐る恐るたずねる「今年って、民国何年ですか?」
そう、陳澈はまさかまさかの過去にタイムスリップしてしまったのです(どーん)
しかもそこは民国78年=1989年。陳澈が生まれる一年前。そこで出会った先ほどの女の子がなんと実の母親の大親友・葉真真だった。そして陳澈は、まだ22歳のころの母に対面する。


と、さらっと紹介するはずだったのが妙に長くなってしまった。冒頭のシーンでありきたりなアイドルドラマかと思わせておいて、急に意味深なセリフ、そしてまさかのタイムスリップ。まあ、タイトルに1989ってあるんでよくよく考えたらそうなるよな~1989年に行っちゃうよな~て感じなんですが、過去にさかのぼって自分を産む前の母に出会い、そこから自身の出生の秘密を探っていくという、ちょっとスリリングな話なんです。
いま台湾では14話まで放送されていて、だいたい20話で完結というのが多いのでそう考えると約4分の3行ってますが、父親が誰なのかという問いの決定的な答えが出ていません。かなり引っ張ります。ただ、13、14話辺りがかなり鍵というか、ほとんど核心に近づいている。それでもまだ真相に靄がかかったままで、イーッってなります。
物語の主軸にはもちろん、陳澈が1989年にタイムスリップして自身の出生の謎を解き、頑なに話そうとしない母の秘密の過去を知っていくというのがあるんですが、同時に1989年で出会った母の親友・葉真真との時空を超えた恋ってのももう一つの軸です。

タイトルにある、「一念間」という言葉を解釈するのが難しいなあと思いつつ調べていたんだが、もともと「一念」は仏教用語で「きわめて短い時間や、その短い時間に生じる、わずかな心の動き」を意味しているんだそうです(星飛雄馬『45分でわかる!数字で学ぶ仏教語。』p.8)。つまりその「一念」と「一念」の間、一瞬の時間、感情の変化を意味しているようです。これは物語と深くつながってるキーワードなんだと思います。過去にタイムスリップした陳澈は、自分自身が「バタフライ・エフェクト」を起こしてしまうという問題に向き合う必要があった。彼が一瞬の心の動きによって起こす些細な行動が、未来をどうにでも変えてしまう。葉真真を好きになっちゃうのか、好きだと認めちゃうのか、それとも黙っているのか。もちろん葉真真や陳澈のお母さんも、知らないうちにその「一念間」を生きている。それに、たとえ葉真真を好きになっても、いずれ2016年に戻らないといけない(ほんまに戻るんかな)陳澈にとって、その恋にはすぐに別れがくる。あとは2016年と1989年っていう26年間を一瞬でタイムスリップしちゃったっていうこととも掛けてるんかなと思います。これ日本語タイトルにするの難しそう。わたしなら思い切って意訳して『1989年の君へ』とか、『1989年―刹那の恋』。「刹那」てこれも仏教用語では。刹那って言うとなんか強そう。
何話だったか忘れちゃったんだけど、陳澈がセリフの中で「一念間」という言葉を使っていて、なんかかっこいい感じのセリフを言ってた気がするんだけど…思い出せなくてもやもやしてます。見返して探すのも面倒なのでとりあえず放置。


思いのほか長いこと書いてしまったけど、言いたかったのは≪1989一念間≫おもろいよ!っていう。胸キュンシーン的なもの長くてとばして観たりしちゃうけど全体としてはなかなかだよ、っていうお話でした。


【追記】
陳澈の言ってたセリフ、そのシーンから抜き出してきたのでメモ。

  我們不知道下一秒會發生什麼
  只能把握現在
  做出將來不會後悔的選擇
  而將來會如何
  就在你的一念之間

  先のことは分からない
  後悔しないよう
  今を生きるだけだ
  未来は
  この一瞬にかかってる

こうやって訳してみるとそんな決めまくったセリフに見えないな…わたしの力不足。