Thursday 16 June 2016

はじめての蓄音機で台湾語歌謡を聴きながらあれこれと

「台湾語ポップス黄金時代のSP盤を蓄音機で聴こう!」というイベントに行ってきた。@台湾文化センター。今年は一段とイベント目白押しで、経済文化代表処の本気をビシビシ感じる。(いいぞいいぞ!そのうち吳寶春とかも来んかな!パン試食付きで!)

日本植民地時代の台湾の貴重なレコードを蓄音機を用いて聴くという主旨のイベントだが、台湾大学音楽学研究所に在籍中で植民地期流行歌の研究をしている林太威さんのほか、1990年代の「新台語歌運動」を担ったミュージシャンの一人、豬頭皮さんがトークイベントのためにやってくるということで、どんな話が聞けるかとワクワクしながら会場に向かった。

レコードを見て触ったことはあったが、蓄音機を使って聴くのはこれが初めて。イベントのために用意された蓄音機は選曲家・桑原茂一さんの私物。古い蓄音機はデリケートでゼンマイが切れて壊れやすいため、今回は電動式のものが使用された。「本来なら蓄音機の周りに数人で集まってじいっと耳をそばだてて聴くもの」だそうで、はしっこに座っていたわたしはせっかくだしと思っていそいそと蓄音機の真ん前まで近づいていった。蓄音機の蓋の内側には見覚えのあるワンちゃんの絵。ビクターの蓄音機だ。音のかすれた感じが、一枚のレコードが辿ってきた歳月を思わせる。予想よりも驚きがなかったのは、たぶん映画の中で流れる蓄音機の音を聴いたことがあったからだと思うけど、CDやなんかで聴くよりも音の波を感じられる気がした。

いよいよ豬頭皮が登場、さっそく「無醉不歸」(1999年カバー)を歌ってくれた。原曲は1935年、作詞:李臨秋、作曲:王雲峰。台湾文化センターはそもそも音楽ホールのような防音設備なんてないはず(前回宇宙人が演奏してた時は外に丸聞こえだった)なので、大掛かりな演奏じゃなくてYoutubeのMV流しながら歌うという感じだったけど、このライブなんてしなさそうなお堅いビルの一角で豬頭皮が端から端まで行ったり来たりして歌ってるってのがアンバランスでおかしかった。林さんも登場してみんなで「無醉不歸」のレコードを鑑賞。そうして林さんによる解説を交えながら「台北音頭」(これは日本語で、「東京音頭」をもじって在台日本人が台北への愛着を込めて作った曲だそう)、「蝶花夢」、「陳三設計為奴」、「望春風」、「雨夜花」、「月夜愁」、「補破網」と順に聴いていった。

豬頭皮曰く、1991年に台湾語の曲でCDデビューした彼の頭の中には常に台湾語歌謡が流れていたという。これらの曲の精神を創作に注ぎ込み、出来上がったのが「望花補夜」という曲だ。1930年代の流行歌―いまでは「老歌」=「懐メロ」とも呼ばれる―は専門家の研究では当時少なくとも500曲以上あったといわれている。その中でも長きにわたって台湾人に愛され、今なお歌われ続けている代表曲といえば「望春風」、「雨夜花」、「月夜愁」なんかが真っ先に挙げられる。豬頭皮の「望花補夜」は、代表的なこの三曲プラス第二次世界大戦後に創作された「補破網」からインスピレーションを受けてつくられたもので、それぞれのタイトルから一文字ずつとって命名された。まさしく、台湾語歌謡へのオマージュとして作られた作品である。「望花補夜」にも豬頭皮のユーモラスでおちゃらけた作風が満ち満ちていて、それはまるでしばしば「暗くて悲しい曲が多い」と言われてきた台湾語歌謡の既存イメージを吹き飛ばそうとしているかのよう。なんて思っていたら豬頭皮が書いた短い創作手記がありました。これによると、選挙戦の民進党応援演説の場で台湾語歌謡を演奏したときのこと、歌い終えた後である牧師さんが「もうこれから台湾(人)は悲しむ必要ないのだから、こういう悲しい歌は歌わなくてもいいんだ、引き出しにしまっておこう」と言ったのを聞き、豬頭皮がそんなら“悲しい歌”なんて言われている台湾語歌謡を新しく解釈しなおして、愉快で踊れるようなロックにアレンジしてやろう!と思い立ったそうな。「望春風」なんかが選挙の場で歌われていたことはよく聞いた話だけど、豬頭皮とかがわざわざ歌いに行ってたのか。

話を聞くうちに80年代末~90年代にかけての台湾語歌謡にまつわる音楽業界の変化とか、作品の時系列がこんがらがる。以前、ある方(日本人)が1980年代に台湾に行ったときのことを話してくださって、いわゆる党外活動をしている人たちがこっそり集まるような喫茶店とか食事できるような場所で、台湾語の曲を歌って士気を高めている人たちの姿が見られたそうな。そういうところでよく鳳飛飛の歌っている台湾語の歌がラジカセから流れてくるのを聴いたらしい。1977年と1986年にそれぞれ歌林唱片から台湾語歌謡のアルバムが出てるので、たぶんそのいずれかなんだと思う。鳳飛飛も昔の台湾語歌謡の発掘に尽力した歌手のうちの一人で、羅大佑プロデュースのアルバム『想要彈同調』も出してる(百代唱片EMI)。それが1992年8月のこと。その三年前、1989年には黑名單工作室が『抓狂歌』出してて、これが「新台語歌運動」の始まりと言われる。鳳飛飛も1992年のアルバムの中で台湾語の新曲を出しているけど、鳳飛飛のこういう音楽活動が新台語歌運動の範囲に含まれて語られることはない。鳳飛飛は台湾語で創作しても、そこに社会風刺、政治批判、ロックの精神なんとかかんとかって盛り込まない。鳳飛飛はよく、古い台湾語歌謡を改めて“ラッピング(包装)”しなおすことで、低俗と難癖つけられることさえあった台湾語歌謡の地位を高めたい、みたいなことを言ってた。新台語歌運動では台湾語歌謡が低俗かどうかはもはや問題ではなくて、台湾語で歌い、その中で何を訴えるかが大事やったんかな。方向性が全然違うよな。何とも言えない脱力感も。でも、だからといって当時の豬頭皮さん含め新しい世代の台湾語“ポップス”と、鳳飛飛のやってきたこととが無関係ではないだろうと思うんだが、そのへんのことを聞いてみたいと思いつつ質問がまとまらずチャンスを逃した。いつもこうです…

もう一、二か月後には林さんが副館長を務める『聲音光年1932』というレコード資料館がオープンする予定だそうだ。次台湾に行くときには足を運ばねば。それにしても、同じ空間で日本人と台湾人が、日本植民地時代の台湾語のレコードを聴くというのは、なんとなく不思議な心地がした。

あと関係ないけどこの本欲しい。ネットでちょっと読める。トーク聴いたあと、久々にまじめに勉強したくなった。

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