Sunday 9 May 2021

ヴィーガンについて考えたこと

急にヴィーガンに興味が湧いて、動物性の肉を食べることをやめてみようと思い立ち、手探りながら実践してみた。結果、長期的には続けることはできなかったのだが、食や人間について考えるよいきっかけにはなった。(注:ヴィーガンというと食だけではなく、毛皮や革製品などの動物を殺すことで得られる素材の生産、使用を反対するものではあるが、今回書く内容は主に食に関してである)

まずなぜヴィーガンを実践してみようと思ったか。きっかけはアニマルウェルフェアを訴えるサイトやSNSで公開されている、牛や豚や鶏の残酷な飼育、と殺を撮影した動画を見たことが大きい。映像だけでなく文章でも、アニマルライツを訴える人の考えを読んで共感したことがあった。そして一昨年から犬を飼い始めて、人間以外の生き物が身近になったことも、遠景にある。

そもそもヴィーガンの考え方の背景にあるのは、単に動物を食べるという行為がかわいそうだという感情的な理由だけではない。酪農による環境負荷や、海産物の乱獲によって生態系が壊されるといった環境問題も、動物性肉食を否定する理由のひとつである。私自身が興味を持ったのはどちらかというと感情的な理由からだが、加えて野菜中心の食事をすることで得られる健康面でのメリットも実践を後押しした。

まとめると、①動物の尊厳を守る、②環境負荷を軽減する、③人間自身の健康という3つの長所がヴィーガンの実践にはあると言われているわけだが、実際にやってみて、「果たして本当にそうといえるか?」という疑問がわくとともに、「動物の尊厳を守る」という考えに隠された人間の欺瞞や偽善について考えさせられた。

途中でヴィーガン食の徹底を諦めた一番の理由は単純で、ヴィーガンでも食べられる食材を調達し、植物性の食材だけで栄養が偏らない健康的な食事を続けていくために必要となる金銭的、時間的なコストが大きいと感じ、続けてはいけないと判断したからだ。実際、ヴィーガンを長年続けていた人が栄養に関する知識不足のためにかえって不健康になってしまい、動物性の食材を摂り始めて身体の不調がぱたりと治ったという例がある。始めたての私としては少しずつヴィーガンに移行し、栄養に関する知識を深めていくという方法がもちろんあったが、いかんせんそこまで労力をかけるほどヴィーガンを実践することに対する熱意や、ヴィーガンの考え方への深い共感がなかった。それに、情報を集め実践していく過程でヴィーガンに対する疑問や違和感はむしろ増えていった。

ヴィーガンに対して当たり前のように投げかけられるのが「植物は食べてもかわいそうじゃないというのか?」という反論である。これに関しては安直な反論で幼稚だと思いもするが、確かに当然湧いてくる疑問ではある。これに対し、ヴィーガンを主張する人たちの中では、植物には痛覚や感情がないから食べてもよい、という判断が主流らしい。だが、植物を消費することで動物や環境に悪影響を与えていることに関しては思い至らないヴィーガンもいるようだ。野菜や豆を生産する過程で人間が自然の生態系を破壊し、虫を殺し、小動物の住処を奪っていることは事実である。結局は植物を食べるにせよ動物を食べるにせよ、人間は他の生き物の犠牲なしには生きていくことができない。動物性の肉を食べず、植物性の食材も極力環境に配慮した方法で栽培された、虫食いのある、無農薬のものを食べる。それを徹底できる人はよいが、全員が全員そんな余裕や熱意があるとはいえないだろう。ヴィーガンの中にもグラデーションがあるように、ある問題(倫理的、社会的、環境、健康など)を解決する手段としての食の選択において、「どこで線引きをするか」が重要になってくる。

ここで食に関するタブーを設定している宗教のことを思いだす。植物と動物の間に線引きをしているヴィーガンも、その点では宗教におけるタブーの考え方と似ている。ある特定のタブーを避けるというルールを守っていれば、罪からはまぬかれるという意識が、実はヴィーガンの根本にはあるのではないか。つまり、ヴィーガンという思想や行為は、宗教が死んだ現代における一種の免罪符なのではないかと思うのだ。人間が生まれながらにして背負っている、他の生き物を犠牲にすることの罪から逃れる方法として、ヴィーガンは機能していると思うのだ(もちろん、罪から逃れられるというのは幻想にすぎないのだが)。

ところで、そもそもヴィーガンを推進する人たちは、どうするにしても人間の存在自体が他の動物にとって脅威であり、暴力的な存在であり、その事実が生きる限りつきまとうことを、どれだけ自覚しているのだろうか?まさにそれを自覚した上で上述のように線引きし、ヴィーガンを免罪符としているのだろうか?彼らの中には「あらゆる暴力にたいしてNOを訴えるのがヴィーガン」と考える人もいる。だが本当に人間はすべての暴力に対してNOと言い、それを完璧に実践できるだろうか?私はそうは思わない。免罪符としてヴィーガンを実践するならまだしも、人間の消し去ることのできない暴力性について無自覚なままヴィーガンを訴え、暴力性はゼロにできると信じて疑わないようならば、それは愚かな欺瞞・偽善にすぎないと思うのである。

こうやって考えてきてみて、私は過激なヴィーガンの人々には賛同しかねるが、免罪符として機能するヴィーガンの思想についてはアリだと思う。何事も原理主義は危うい。人間以外の生き物への暴力にNOを唱えるヴィーガンも、突き詰めれば人間自身の命を絶つ方向へと向かわざるを得ないと思う。人間として自身の暴力性に自覚的であり、そのことと日々向き合いながらも、健康的に生きるために(結局は人間本位なのである)他の命をいただいていく。今の私にはこの姿勢が一番しっくりきそうだ。


Saturday 18 July 2020

2020年7月18日

好きだった俳優が死んだ。思いもよらぬ死だった。1歳も違わない、ほとんど同い年だ。ファンと呼べるほどではないが、彼の出演してた作品が好きで、彼の演技も好きで、舞台も見に行きたいと思っていた。もう二度と見ることの叶わない彼の舞台に。

まだ信じられない。彼は私たちと同じように年を重ねて、演技に磨きをかけて、渋さも増して、おじさんになっても、少なくとも芸能界を引退するまでは、いろんな表情や仕草を見せてくれると思っていた。それがもう見られないのだと、私の中で彼はいつまでも30歳の姿で、あるいはそれ以前の写真や映像だけが残されていて、私だけが年をとるのだと、素直には受け入れられずにいる。

多くの人が死んできた、歌手でも俳優でも。多くの人が悲しんできた、でもすぐに忘れていく。どうせ。けれど今回はなぜか、これまで以上に悲しかった。年が近いせいだろうか?自分だけ(もちろん、大勢の人が他にもいるわけだけど)が年を取るという感覚、虚しさのようなもの、それをこれから幾度か味わうことになるだろう事実を突きつけられて、胸がしめつけられた。この気持ちを忘れたくない、彼がいたことを忘れたくないと思って、ここに書き残すことにした。

Sunday 17 May 2020

「翻訳」についての覚書

大学時代の知人が、最短40日間でプロ翻訳者になれるとうたう翻訳学校を経営していると知って唖然とした。彼のサイトやFacebookを見てみると、「語学力がなくても」とか「1000万かせげるようになる」とか、ちょっと信用しがたい言葉が散見された。詐欺まがいと片付けて無視することはできるが、何か自分にも向き合うべき問題がここに見え隠れしているような気がして考え込んでしまった。

彼は基本的に機械翻訳を活用し、過去の翻訳事例をリサーチするなどしたうえで、最終的に日本語を組み立てるという手法を伝授しているようなのだけど、正直、それ自体は翻訳作業の一つとしてあながち間違っているわけでもないと思える。私も特許翻訳の仕事で機械翻訳を使ったことがあるし、近年の精度向上には驚きもある。批判が起きている一番の理由は、「語学力がなくてもプロ翻訳者になれる」「1000万円かせげる」といった過剰な広告、宣伝文句にあるのではないか。機械翻訳を使いこなせたとて、最終的にそれが合っているのかチェックするには語学力がいるし、自然な文章にするには母語の表現力もいる(もしかすると、これも先入観に過ぎないのかもしれないが)。そこをすっ飛ばしていることに、私たちは違和感を持っているはずだ。

今、すっ飛ばすという言葉を使ったのだけど、そう考えると、私は翻訳するにあたり基礎となる能力に「語学力」「日本語表現力」を置いていることになる。たぶん、世間一般の認識もそうであるはず。その基礎あって、なおかつ機械というツールを活用するという順番であり、その逆はおかしいと。機械翻訳や検索を巧みに使いこなすだけなら、それは「翻訳」ではないと思われるかもしれない。でもここで疑問が浮かぶ。「翻訳」ってそもそも何なのか?なぜ「語学力」がないとできない(「語学力」なしでできるなんておかしい)と感じるのか?

辞書では翻訳とは「ある言語で表された文章を他の言語に置き換えて表すこと。また、その文章。」とある。その定義ではただ「置き換えて表す」とあるだけなので、手段は問われていない。機械を通そうが、人間の頭だけでやろうが、他の言語に置き換えられていればそれで翻訳となる。いっぽう、翻訳とは「言葉に対する暴力だ」と言う人がいた。私はかなり同感するというか腑に落ちる。翻訳する過程で元の言葉は読解を名目に切り刻まれ、脳内で原形もとどめないほどドロドロに溶解された上、ふたたび形ある別の言葉として乱暴に再構築される。どれだけ忠実に訳そうとしても、そこには訳者の意図や個性が介在してしまうし、何なら翻訳はひとつの創作行為であって、訳されたものは本来のものとはまったく別の作品と捉えるべきと考える人もいる。産業、映像、出版など翻訳のジャンルにもよると思うので一概には言えないけれども、翻訳に創作的な側面が少なからずあることは確かだと思う。

ただし、ここから先はマインドというか、個々人の哲学みたいな話になってしまうのだが、翻訳者というのは、翻訳という行為が本質的に暴力であるということを踏まえたうえで、それでもやむを得ず行為する場合に、暴力によって生まれる言葉の傷や確執のようなものを最小限に抑えることを求められるものではないか。言い換えれば、本質的に暴力である翻訳行為をどれだけ元の言語や文章に敬意を持って接するかという態度が、翻訳者には問われているのではないか。そして敬意を持つということはすなわち、元の言語に対するそれ相応の理解(語学力)を身につけているということであり、翻訳する先の言語において適切に言葉を選ぶことのできる能力を備えているということではないか。そしておそらくそれらは、生い立ちや環境によって個人差はあるものの、地道な努力(あまり使いたくない言葉)によって獲得していくしかないものなのではないか。

ある意味、語学力がないと翻訳ができないわけではなくて、クライアントと翻訳者の姿勢が一致するかどうかという問題なのかもしれない。実際、そういう態度(良心、と言ってもよいだろうか)が別段求められない翻訳もあると思う。ランサーズとかクラウドワークスとか出ている求人のようなハチャメチャに単価の低い案件なんかは、その部類と見ていいのでは。これだけ機械翻訳の精度が上がってきている中、生身の翻訳・翻訳者がどうやってその価値を保ち、高めていくかというのは自分自身に問われている課題であり、それを考えた時に上記のようなことがキーワードになってくるんじゃないかと感じている。なんか精神論、根性論みたいでちょっと後味悪いんだけど…。まあ、私は、できればそういう態度を求めてくれる人と仕事をしたいし、自身がそこを大切にできる翻訳者でありたいと今は思う。

Wednesday 29 May 2019

台湾ドラマ『太陽を見つめた日々』(めっちゃネタバレあり)

 『太陽を見つめた日々』(原題:他們在畢業的前一天爆炸※直訳すると「彼らは卒業の前日に爆発した」)は2011年に台湾で放送された5話完結(予定だった)のドラマだ。主人公の陳浩遠(チェン・ハオユエン)は成績優秀で友人思いの所謂“善良な”少年。高校入学をきっかけに軽音部でギター&ボーカルを担当する王丁筑(ワン・ディンジュー※以下アディンと呼ぶ)と知り合い、いつしか二人は付き合いはじめる。ハオユエンはそんな風にしてつつがなく高校生活を送り、青春の色鮮やかな日々を過ごしていくかのように見えたが、入学式の当日に屋上で出会った議員の息子・洪成揖(ホン・チェンイー)が銀行強盗未遂をしたことを知り、ハオユエンの中にも何らかの不穏な影が落とされ、物語が幕を開ける。

 一見青春ドラマに思えるこの作品が実にどれだけ社会への批判性、反抗性を帯びているか、話数を追うごとにその強烈さは淡々と増していく。その淡々とした描写が、まだあどけなさの残る少年の横顔に潜む狂気や暴力性を際立たせる。ハオユエンが受けた辱めの仕返しにチェンイーが男たちにとびかかり、耳を食いちぎるときの異様な目。あれは17や18の子どもが持っていていい目ではない。己の存在の不確かさから逃れるためには肉体を行使して確かめるしかない。腕を振り上げ拳をぶつけ、血を味わう。けれどそうしたからといって救われるわけではなく、問題の根本にあるもの――父親の不在――を解決しない限り、いつでも暴発しうる時限爆弾を抱えることになる。

 ここに写される少年少女は、学校の教師や親からは子ども扱いされながら同時にもう子どもであることを許されない状況に置かれ苦しんでいる。ピアノ、ドラム、ギターなどいくつもの楽器が弾けて才能さえ見いだされるハオユエン。しかし父ひとり子ひとりの家庭で父は友人の借金を肩代わりさせられ、無職の上にさらに借金を重ねてゆく中、音楽をやりたいなどとは言い出せない。父の期待に応えて一流大学の法学部を目指すも、金銭的事情でそれすら危うくなる。追い打ちをかけるかのように、金融業者は容赦なく取り立てにやってきて父親は頭を下げることしかできない。ハオユエンは葛藤の中で、父の善良さを知っていながらついその心の弱さを攻め立ててしまう。

 またアディンの親友・林筱柔(リン・シャオロウ)はアディンと疎遠になってしまった孤独からネットに出会いを求め、そこで出会った男から麻薬を強要され、性的暴行を受けてしまう。秘密を知ってしまったハオユエンは彼女を助けようとするも、教師たちはそんな彼を鼻で笑い飛ばす。シャオロウは「汚れてしまった」という意識から、そして痛ましい経験から募らせてしまった男性へのあるいは対人関係すべてにおける不信感から、友人とも距離をとり、純粋に好意を抱いてくる先輩のことも拒絶する。一方で親身になってくれた数学教師に対して師弟以上の関係を求めてしまう。

 数学教師とハオユエンの間で交わされる会話が印象深い。シャオロウを身籠らせてしまった教師が責任を取って辞めるという。どうしてこんなことになったのか、これからどうすればいいのか、なにがただしいのか、先生にもわからない。そういったことを言う教師に対して、先生がそんなことを言うな、生徒である僕たちはどうしたらいいんだと、ハオユエンが声を荒げる。信頼していた大人が無力であることを知るとき、大人になることへの幻想は打ち砕かれ、同時に無垢な子どもでもいられない現実に存在は引き裂かれてしまう。

 実は、チェンイーの育ての親である議員は、自身の利益のために人を雇い(あるいは人に罪を着せ)殺人を犯すような悪徳政治家だった。そして議員がその街の金融会社を裏で操り資金源とし、警察官を自分の犬にして、借金の取り立てまでさせている。そう、ハオユエンの家に押し掛けたのはその犬だった。挙句、ハオユエンに大学進学のための援助を持ち掛ける。だがハオユエンには分かっていた。議員が自分を進学させ、法律家にした暁には、利用しようとしていること。チェンイーの実父を刑務所送りにしたのが議員であること。大人たちがいかに役立たずであるかということ。そして自分の置かれている今の状況が彼らの傲慢で怠惰で身勝手な行動よって生み出されてしまったということ。

 少年は拳銃を握りしめ、たった一人で敵に立ち向かう。彼は私ではなかったと、あなたではなかったと言えるだろうか。「よかった時の僕のことを覚えていてほしい」その一言を恋人に言い残し、少年は白昼の闇の中へと突き進んでゆく。

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 どの役者も秀逸な演技でみせてくれているのだが、やはり「狂気の目」を持ったチェンイーこと巫建和(ウー・ジエンホー)なしでは語れない。彼は映画『共犯』(2014年)にも出演していて、どこか孤独の影が差す落ち着いた少年の役柄を演じている。その落ち着きが逆に背筋の凍るような気持ち悪さを抱かせるところがあった。2011年の時点でこのドラマであの芝居しててからの共犯か…と思うと末恐ろしいとさえ思うのだが、去年は呉慷仁と共演して『憤怒的菩薩』(陳舜臣による同名小説が原作)に出演していたようでこれは要チェックだ。呉慷仁といえば、『太陽を見つめた日々』にも呉慷仁がちょい役で出演している。さらには黃建偉(議員の犬役)、許瑋甯も出演していて、まさに製作側の伏線かと思わせるほど2015年の台湾ドラマ『麻醉風暴』の主要キャストが勢ぞろいしていた。監督の鄭有傑は映画『太陽の子(太陽的孩子)』でもレカル・スミと共同でメガホンをとった、社会問題や社会運動への関心が強い人物だ。(以前書いた太陽の子の感想こちら

 2017年には《他們在畢業的前一天爆炸2》すなわち『太陽を見つめた日々2』が公開された。日本では1とともにネットフリックスで鑑賞可能。残されたアディンとチェンイーのその後が描かれ、ハオユエンを彷彿とさせるまっすぐな瞳の学生運動団体のリーダー何士戎(ホー・シーロン)が登場。シーロン役には新たなキャスト・宋柏緯(ソン・ボーウェイ)が。最近では『愛情白皮書(あすなろ白書)』(2019年)にも出演していて、自作の曲がドラマのテーマソングにも使われている多芸多才な役者だ。

 シーズン2では中国との間で取り交わされた不正な経済貿易協定をめぐって学生をはじめ市民が大規模なデモを行った2014年の「太陽花運動(ひまわり運動)」や、中国マーケットからの反感を受けて、台湾独立を連想させるような言動をとった芸能人が謝罪をさせられた事件など、1よりも一層、社会的なイシューに焦点を当てつつその渦中でもがく若者の姿を描く。

 こういう台湾の作品を見ていると、社会という大きな集団が抱える問題と、恋愛や就職といった個人的な悩みとが切り離せないものであることを改めて思い知らされる。たぶん、成長していくごとにそのことを忘れがちで、そもそも仕事が忙しすぎて悩むための時間も、世の中で起きてる問題にコミットする時間もないというのが私、私たちの常なる現状だと思う(これは言い訳に過ぎないかもしれないが)。けどどこかで、少なくとも私は、彼らのような青臭さを求めてもいる。そしてハオユエンやシーロンのように、向こう見ずな情熱を持っていたいとさえ思う。拳銃は私たちの手に託されている。

 鄭有傑監督は日本でも訳本が出版された『歩道橋の魔術師』(呉明益著/天野健太郎訳)のドラマを製作中らしい。こちらも非常に楽しみ。そういえば、『太陽を見つめた日々』といい、『太陽の子』といい(「太陽花運動」もそうだけど)、この監督は太陽に縁のある人なのかしらね。

Monday 27 May 2019

台湾で同性婚合法化に おめでとう

 先日、台湾で同性婚を合法化する法案が可決された。台湾の友人たち、改めておめでとう。このニュースに少しだけ関連して、最近あったこと、考えていたことをとりとめもなく書き残す。

 その日、台湾からの吉報に私は喜んでいた。幸せな気持ちになって、会話でも話題にしてみたんだけど、ある知人と話したときその人が「よかったね、おめでとう、ニュース見たよ」といい、直後に「同性愛者の人らで勝手にやってくれる分にはいいけど、こっちまで巻き込まないでほしい」と言った。一瞬なにを言ってるのか理解できず、というのも矛盾しているように感じたからで、二つのセンテンスを同じ人が言っているとは思えなかった。とりわけ「巻き込まないで」という言葉が一晩中胸につっかえていた。それは少なくとも私には暴力的に聞こえて、言葉の奥に悪意さえ感じとれてしまった。はっきり言って傷ついた。

 ちなみに、私には女性だという自覚があり、恋愛対象は男性で、異性愛者であり、男性と結婚しています。過去に女性に対して恋愛に似た特別な感情を抱いたことがないこともないですが、それを男性を好きになることと全く同じ感情だったとは言い切れません。だから“当事者”かと問い詰められるとそうだと言えない。ただ以前から、同性婚や同性愛というテーマにはとても関心があった。これは私が初めて読んだ台湾小説がレズビアンの視点で恋愛の苦悩を描いた『ある鰐の手記』(邱妙津著/垂水千恵訳)であったこと、それから同性愛者であることを自認する友人がいることと関係があるのだと思う。

 話を戻すと、知人と別れたあとももやもやが続いたので、「巻き込まないでほしい」ってどういうことなのか?と深く突っ込まなかったことを少し後悔した。夫にこの話をしてみたところ、それはデモとかの抗議活動のこと言ってるのではないかという意見だった。例えばプライドパレードのせいで道が混雑して困ったとか、シュプレヒコールがうるさいとか。仮にそうだとして、つまり噛み砕くと「同性愛者が愛し合ったり、結婚できるようになるのはいいこと、だけど権利を主張する方法をもう少し工夫して、他の人に迷惑かけないようにしてくれると嬉しい」みたいなことだったのだろうか。だとしてもそこから「巻き込まないで」という言葉に至るとは思えず、そもそも誰にも全く迷惑をかけずに何かをやれってめちゃくちゃ難しいことなのに軽く言うよな、つーかデモとか抗議とかむしろ周囲を巻き込んでなんぼのもんでは、と感じる節もあり…今でもやっぱりどこか引っかかっています。

 たぶん数年前なら、学生のころなら、私はその場で突っ込んで聞いていたと思う。そうしなくなった理由には、意見がぶつかるのが面倒だし、考えは人それぞれ、最終的には分かり合えないこともあるというネガティブな諦めの他に、「余計なお世話だよ」「言われなくても勝手にやるよ」と心の中で中指を立てて済まそうとするポジティブな潔さみたいなのがある。ただし、そうやって済ませるには、私自身や話に関わる人たちの権利が保障され、差別されず、心身ともに安全でいられることなどが前提にないと難しい。今回の場合は、法律上で同性婚が認められた台湾で考えれば中指を立てて済ますこともできないこともないけど、日本の現状を考えたときに「巻き込まないでほしい」という言葉に対してはただただやるせなさが残る。(あと、今回通った法律だと、台湾人と外国人のカップルの場合、外国人側が属する国の法律で同性婚がNGだったら結婚できないといった問題も残っている)

 もやもやしつつ、台湾の詩人・鴻鴻さんが同性婚合法化の直前にFBにあげてた<同志>という詩を読んでた。2016年くらいに書かれたもののよう、最後の方にこうあった。

  けれど口を開く前に
  彼らはあなたが間違っていると言った
  ならば間違っていることにしよう
  地球だってもともと傾いているのだし
  でなければ四季も訪れない
  私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
  あの正しい人たちは
  自らの想像上の地獄で生かしてやろう
  彼らはそれを天国と呼ぶ

 台湾ではキリスト教信者で同性婚に強く反対する団体があって、詩の中の「彼ら」「正しい人たち」というのはその人たちを指しているのだと思う。「あなた」は同性愛者、あとに「私たち」というのが出てきてなんだか“当事者”の広がりを感じる。タイトルの「同志」は、同性愛について語る場面では「同性愛者」と訳されることが一般的だが、元々は中華圏とくに中国共産主義思想の下で思想を同じくする仲間に対する呼びかけとして用いられてきた背景がある。私はこの詩を読んで、単純に同性愛者という意味よりかは、読んで字のまま「志を同じくする者」という、より広い意味での「同志」に対して呼びかけているように読めた。もちろん共産主義者という意味でもない。
 
 地獄を地獄とも知らず天国と呼んでいるようなあいつらのことは放っておこう、という風刺は、場合によっては対話することを諦めるような、私が知人に対して抱いたようなネガティヴな態度に見えることもある。けど、現実に法律の後ろ盾を得た台湾に重ねてみれば、清々しく前向きにも聞こえる。誰にも邪魔されず(邪魔されても屁とも思わず)各々の幸せを掴みに行く決意でもある。まだ課題はあるだろうけど、今は喜んでいいのだ、祝福してよいのだ。

 自身もゲイである友人の、今回の出来事に関する解説を聞いていて、改めて台湾における社会運動に対する人々の意識の高さと、同時に参加することへの一般市民にとってのハードルの低さを感じた。台湾の社会運動では複数のイシューを巻き込みながら活動を進んでいくことが多いという。台湾初のプライドパレードで先頭を歩いたのがLGBTの当事者ではなく、セックスワーカーの女性であったことがそれを象徴している。それぞれ一見ばらばらに見える問題にもどこかに重なりを見出すことができ、共感や理解しようとする意思が生まれて、「私のこと」としてかかわっていくことができる。

 そういえば「私のこと」で思い出したけど、初めて『ある鰐の手記』を読んだとき、「これは私の物語だ」という感覚が強く湧いたのだった。そこには性的指向に関係なく共感できるものがあって、すなわち、どれだけ愛しても愛しても(相手からも周囲からも)理解してもらえない孤独、みたいなものだったのかと。この話、本の訳者あとがきとかで垂水さんがおっしゃってたような気もするんだけど、、、

詩の原文ここから
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「同性愛者」鴻鴻

彼らは言う自分たちは間違っておらず
あなたが間違っているのだと
彼らは言う想像上のあなたは間違っておらず
実際のあなたが間違っているのだと
彼らは言う自分たちの行く先は間違っておらず
行く先を探すあなたを手助けする人が間違っているのだと

彼らにとって好ましいものは みな信仰に仕立てられる
彼らにとって妬ましいものは みな誘惑と呼ばれる

あなたは言いたい
彼らは間違っていない
私も間違っていない
それが言い出せない

あなたは言いたい
愛することは間違いじゃない
愛さないことも間違いじゃない
彼らは違うと言う

彼らは違うと言う
違う違う違う違う違う違う違う

間違っているのは熱帯雨林、ウンピョウ、スマトラサイ
自由に生きながらも絶滅寸前の生き物すべて
間違っているのはサンタクロースのそりから
重荷に耐えられず逃げ出したトナカイ
間違っているのは人を愛して
ヘンタイ、キモイ、妖魔ニトリツカレテイルと言われる白娘娘(バイニャンニャン)※1
間違っているのは世界のあるべき姿

あなたは問いたい
文明はあるべき世界を変えるものか
それともあるべき世界を理解するものか
あなたは問いたい
紅豆(あずき)と緑豆こそが対になれるのか※2
それとも愛あってこそ対になれるのか
あなたは問いたい
信仰とはフィルター
針の孔
それとも一筋の虹
あなたは問いたい
まだ問いかけたい

けれど口を開く前に
彼らはあなたが間違っていると言った
ならば間違っていることにしよう
地球だってもともと傾いているのだし
でなければ四季も訪れない
私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
あの正しい人たちは
自らの想像上の地獄で生かしてやろう
彼らはそれを天国と呼ぶ
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(訳注)
※1 中国の伝説『白蛇伝』の物語に登場する、人に化けた蛇の妖怪。また、女性的な話し方、仕草をする男性に対する差別的な形容表現「娘娘腔」とかけていると思われる。
※2 紅豆(あずき)と緑豆は男女のメタファー。美しく着飾った男女を意味する「紅男緑女」ということわざがあり、婚礼時に紅豆と緑豆を用意する風習がある。