Saturday 18 July 2020

2020年7月18日

好きだった俳優が死んだ。思いもよらぬ死だった。1歳も違わない、ほとんど同い年だ。ファンと呼べるほどではないが、彼の出演してた作品が好きで、彼の演技も好きで、舞台も見に行きたいと思っていた。もう二度と見ることの叶わない彼の舞台に。

まだ信じられない。彼は私たちと同じように年を重ねて、演技に磨きをかけて、渋さも増して、おじさんになっても、少なくとも芸能界を引退するまでは、いろんな表情や仕草を見せてくれると思っていた。それがもう見られないのだと、私の中で彼はいつまでも30歳の姿で、あるいはそれ以前の写真や映像だけが残されていて、私だけが年をとるのだと、素直には受け入れられずにいる。

多くの人が死んできた、歌手でも俳優でも。多くの人が悲しんできた、でもすぐに忘れていく。どうせ。けれど今回はなぜか、これまで以上に悲しかった。年が近いせいだろうか?自分だけ(もちろん、大勢の人が他にもいるわけだけど)が年を取るという感覚、虚しさのようなもの、それをこれから幾度か味わうことになるだろう事実を突きつけられて、胸がしめつけられた。この気持ちを忘れたくない、彼がいたことを忘れたくないと思って、ここに書き残すことにした。

Sunday 17 May 2020

「翻訳」についての覚書

大学時代の知人が、最短40日間でプロ翻訳者になれるとうたう翻訳学校を経営していると知って唖然とした。彼のサイトやFacebookを見てみると、「語学力がなくても」とか「1000万かせげるようになる」とか、ちょっと信用しがたい言葉が散見された。詐欺まがいと片付けて無視することはできるが、何か自分にも向き合うべき問題がここに見え隠れしているような気がして考え込んでしまった。

彼は基本的に機械翻訳を活用し、過去の翻訳事例をリサーチするなどしたうえで、最終的に日本語を組み立てるという手法を伝授しているようなのだけど、正直、それ自体は翻訳作業の一つとしてあながち間違っているわけでもないと思える。私も特許翻訳の仕事で機械翻訳を使ったことがあるし、近年の精度向上には驚きもある。批判が起きている一番の理由は、「語学力がなくてもプロ翻訳者になれる」「1000万円かせげる」といった過剰な広告、宣伝文句にあるのではないか。機械翻訳を使いこなせたとて、最終的にそれが合っているのかチェックするには語学力がいるし、自然な文章にするには母語の表現力もいる(もしかすると、これも先入観に過ぎないのかもしれないが)。そこをすっ飛ばしていることに、私たちは違和感を持っているはずだ。

今、すっ飛ばすという言葉を使ったのだけど、そう考えると、私は翻訳するにあたり基礎となる能力に「語学力」「日本語表現力」を置いていることになる。たぶん、世間一般の認識もそうであるはず。その基礎あって、なおかつ機械というツールを活用するという順番であり、その逆はおかしいと。機械翻訳や検索を巧みに使いこなすだけなら、それは「翻訳」ではないと思われるかもしれない。でもここで疑問が浮かぶ。「翻訳」ってそもそも何なのか?なぜ「語学力」がないとできない(「語学力」なしでできるなんておかしい)と感じるのか?

辞書では翻訳とは「ある言語で表された文章を他の言語に置き換えて表すこと。また、その文章。」とある。その定義ではただ「置き換えて表す」とあるだけなので、手段は問われていない。機械を通そうが、人間の頭だけでやろうが、他の言語に置き換えられていればそれで翻訳となる。いっぽう、翻訳とは「言葉に対する暴力だ」と言う人がいた。私はかなり同感するというか腑に落ちる。翻訳する過程で元の言葉は読解を名目に切り刻まれ、脳内で原形もとどめないほどドロドロに溶解された上、ふたたび形ある別の言葉として乱暴に再構築される。どれだけ忠実に訳そうとしても、そこには訳者の意図や個性が介在してしまうし、何なら翻訳はひとつの創作行為であって、訳されたものは本来のものとはまったく別の作品と捉えるべきと考える人もいる。産業、映像、出版など翻訳のジャンルにもよると思うので一概には言えないけれども、翻訳に創作的な側面が少なからずあることは確かだと思う。

ただし、ここから先はマインドというか、個々人の哲学みたいな話になってしまうのだが、翻訳者というのは、翻訳という行為が本質的に暴力であるということを踏まえたうえで、それでもやむを得ず行為する場合に、暴力によって生まれる言葉の傷や確執のようなものを最小限に抑えることを求められるものではないか。言い換えれば、本質的に暴力である翻訳行為をどれだけ元の言語や文章に敬意を持って接するかという態度が、翻訳者には問われているのではないか。そして敬意を持つということはすなわち、元の言語に対するそれ相応の理解(語学力)を身につけているということであり、翻訳する先の言語において適切に言葉を選ぶことのできる能力を備えているということではないか。そしておそらくそれらは、生い立ちや環境によって個人差はあるものの、地道な努力(あまり使いたくない言葉)によって獲得していくしかないものなのではないか。

ある意味、語学力がないと翻訳ができないわけではなくて、クライアントと翻訳者の姿勢が一致するかどうかという問題なのかもしれない。実際、そういう態度(良心、と言ってもよいだろうか)が別段求められない翻訳もあると思う。ランサーズとかクラウドワークスとか出ている求人のようなハチャメチャに単価の低い案件なんかは、その部類と見ていいのでは。これだけ機械翻訳の精度が上がってきている中、生身の翻訳・翻訳者がどうやってその価値を保ち、高めていくかというのは自分自身に問われている課題であり、それを考えた時に上記のようなことがキーワードになってくるんじゃないかと感じている。なんか精神論、根性論みたいでちょっと後味悪いんだけど…。まあ、私は、できればそういう態度を求めてくれる人と仕事をしたいし、自身がそこを大切にできる翻訳者でありたいと今は思う。