先日、台湾映画『太陽の子』の上映会に行ってきた。これまた台湾文化センターにて。朝日新聞を経て現在フリージャーナリストの野嶋剛さん大絶賛で、彼の力があって日本での上映が叶った。今後も色んな場所で順次上映されていくようだ。
この映画は台湾原住民・アミの家族とその村の物語であり、台湾社会における原住民をめぐる様々な問題を、穏やかなタッチでありながらも鋭い視点から描いた作品だ。故郷の村に子ども二人と父親を残し、台北で働いていた子どもたちの母・パナイ。彼女は父親の病気をきっかけに帰郷し、耕す人がいなくなりホテル建設のために売られようとしていた自分たちの土地を蘇らせようと東奔西走する。実話を基にした作品で、2013年にはパナイのモデルとなった人物の息子であるレカル・スミさんが『海稻米的願望』というドキュメンタリー映画を制作している。それを観て感動した映画監督の鄭有傑さんがレカルさんとともに新たに映画を撮ったといういきさつ。
映画を観る前に、台湾での原住民たちが置かれている状況や、原住民の土地をめぐる争議についてちょっと知っておいた方がいいかもしれない。
漢民族が本格的に移民してくる前から、原住民たちは長い間台湾で暮らしてきた。入れ代わり立ち代わりする支配者とそれに伴う社会の移り変わりの中で、本来原住民が暮らし、耕し、生命をつないできたはずの土地は、彼らの手から無残にも奪われてきた。(もちろん植民地支配した日本も無関係ではない)1980年代以降、「土地を返せ!(還我土地!)」という原住民たちからの訴えが上がり、近年でも度々問題視されてはいるものの、台湾人口の2パーセント前後でしかない原住民たちの声がないがしろにされることは少なくない。映画でも、土地の所有者であるはずのおばあさんの登記書が「台風で飛ばされた」という理由で役所から忽然と消え、その所有が認められず、無理やり公共工事を進められてしまうという出来事がある。本当に飛ばされたというなら杜撰にもほどがあるし、実際は嘘八百で単に土地をとりあげて国有にしたかっただけである。しかも、こういう出来事はフィクションだけの話ではない。私は四年前に花蓮の原住民の村にお邪魔し、そこで土地問題に取り組むご年配の夫婦にお会いした時も同様のお話を聞いた。企業側と役人が組んで土地の所有権を放棄させ、奪い取り、コンクリート工場を建て、周辺の環境も汚染する。まったくもってむごいしせこい。
とはいえ、先祖代々受け継がれていた土地を泣く泣く売ってしまう人たちがいるのも事実で、映画の中の風景には、道路わきなど至るところに「土地売ります」という看板が立てられている。田舎では仕事がないから、若い人たちは都会へ働きに出る。そうして田畑を耕す労働力が失われ、土地は荒れ果て、ホテル建設を目論む資本を持った事業主に売りさばくことぐらいしか、残された人たちには手立てがない(生活のこともあるしね!)。でもそれじゃあいかん。ここは私たちの土地だ。私たちの手で稲穂に満ちた田んぼをよみがえらせるのだ!と立ち上がるのがパナイであり、パナイの訴えに心を動かされた村の仲間たちである。彼らも最初から賛同していたわけではない。荒れ果てた土地に稲を植えるためもう一度耕すにはそれなりに資金もいるし、壊れた水路の整備をすることから始まり、作業は生ぬるいものではない。めでたく米が収穫できたとしても、それが売れるという保証はどこにもない…いろんな壁があり、もちろん反対する人も出てくる。無理だといって一蹴していた人びとを、パナイがアミの言葉で涙ながらに説得する姿。彼女の熱い訴えに、徐々に場の空気が変わっていく様子が映像からひしひしと伝わってきて、つい私まで涙がこぼれる。
映画を見終えて、台湾の原住民の暮らしと自然との関わり方、アミニズムのような信仰、原住民とアイデンティティの関係について改めて興味をひかれた。同時に、以前読んだ台湾の蘭嶼島に暮らす原住民・タウの作家であるシャマン・ラボガンさんの小説と、イベントで聞いたシャマンさんの言葉を思い出していた。シャマンさんも故郷を出て台北に進学し、卒業後もしばらくタクシー運転手などをして働いていたことがある。その後、体調を崩すなどして家族とともに故郷に戻ることを決意。蘭嶼島に戻ったとき、タウの男でありながらタウの男としての生きる技術(木を伐り、船を作り、漁をする等々)をなんら身に付けられていないことを思い知り、失ったアイデンティティを取り戻すためにひたすら海に潜り始める。海という大自然との共生の始まりだ。シャマンさんの小説には彼自身が海とともに暮らす日々が描かれており、限りなくノンフィクションに近いフィクションの物語である。一方、『太陽の子』ではパナイの娘・ナカウが、陸上の試合を前にして自信を失いその場に座り込んでしまうというシーンがある。そこでパナイはナカウに強い口調で何度も「あなたは誰?」と問う。ナカウは一瞬戸惑ったかのように見えたが、ぼそぼそと、それから徐々に声を張り上げて答えた「パンツァー!(アミ)」 そうして何かの決意に満ちた表情を携えナカウはスタートラインに立ち、走り出す。
どうやら自分はどうしてもアイデンティティに関わる話に興味がいってしまうようで、こういう人物たち、あるいは映画のワンシーンに出会うと、私はなんとなくうらやましいと思ってしまったり、なんとなく感動してしまったりする。台湾人が台湾人アイデンティティを言うときにも通ずるが。なぜ彼らがそうやってアイデンティティを切望したり、自己を何らかの民族であると意識することで胸を熱くするかというと、彼らとは異なるアイデンティティを持つ「他者」の存在のために不利な立場に置かれるという切羽詰まった現状があるからである。そこにはある次元での圧倒的な力関係の差があり、優位な方はそうでない方をその次元に取り込んで、各々が実は異なる価値観や誇りを持った「他者」であるという事実を包み隠そうとする。私たちは仲間なんだと優しい素振りで声を掛けるが、そこに対等な関係性があるとは限らない。いつの間にか相手の論理でゲームをさせられて、流れについていけずに置いてけぼりを食らうのがオチ。そういう状況で敢えて境界線を引くのは、勇気もいるけど自信にもなる。輪郭を描いて、自分が何者であるかという意識を強くすることによって、むやみやたらと自分たちに有利なゲームに取り込もうとしてくる「他者」に抗うことができる。原住民の問題だと、境界線の向こうにあるのは「本省人」とか「漢民族」とかで、台湾が意識する先には中国という存在がある。でもそんな分かりやすい民族とか国家の対立構図だけではなくて、もっと普遍性のある問題をあぶり出すことにもなる。それはあまりに進みすぎた経済発展最優先の資本主義の在り方であったり、多様性という衣をまとって統合しようとしてくる政府の文化政策であったり、いろいろである。私はナショナリストではないし、どちらかというとナショナリズムには懐疑的なところがあるけど、軍事力なり経済力なりなんなり、己の持っている資源のでかさに物言わして「他者」を従わせようとしてくる奴らに対しては、ナショナリズムでもなんでもうまく活用して対抗してやらんと、と思うところもある。一方で、そういう政治に深く絡みそうなアイデンティティの話とは別に、単純に、自分が何者であるかということを強く意識できることは自分の力になるし、なにものでもない不安定感をやわらげ、地に足付いたような感覚にさせてくれるってことで、自分にもそういうのがあれば、なんて思ってうらやましさが湧いたんだと思う。それは気休めでしかないんだろうけどね。
先に「シャマンさんは失ったアイデンティティを取り戻すために」と書いたが、アイデンティティって取り戻すとか見つけるとかいうより、選ぶとか決意するっていう動詞との親和性が強いように私には思える。自分の存在の方向性を選び、そちらに向かうことを決意する。決意すると視界がすっきりして、徐々に現状を打破する方法が見えてきたりする。何かに抗いつつ、自分のあるべき姿を見定めた人のパワーはいつもすごい。私にはこれが足りないんだよな…なんて。
ナカウは最後に台北の学校へ進学する道を選ぶ。これから都市へ出てゆく彼女は、パンツァーの心を持ち続けられるのだろうか。映画には関係ないけど、私には少し気になるところである。
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Monday, 27 June 2016
Sunday, 5 June 2016
台湾映画『若葉のころ』を観てきた―すべての青春に捧げられた映画
人はいつの間にか子どもから大人になるらしい。気付けば映画の鑑賞券に1800円払うようになっていた。私は今年で27になる。見た目にはよく大学生と間違われるが、一般的には大人とカテゴライズされてもおかしくない年齢である。おおよそ10年前、私は17歳であった。誰もが経験するであろう17歳は、誰かにとっては特別で、誰かにとっては何でもない一年に過ぎないかもしれない。自分にとってそれがどんなだったか、もうしばらく思い出すこともなかったので忘れた気になっていたが、今日、シネマート新宿で映画を見終わる頃には、自分にとっての“あの頃”の記憶を手繰り寄せずにはいられなかった。
交通事故に遭い意識が醒めない母にバイは語りかける。「誰かを好きになるって、こういうことなのかな?」バイは同じ学校の男子生徒に好意を抱いていた。だが彼女の友人もまた同じ人を好きになってしまったために、バイは胸の張り裂けるような悲しみの底に突き落とされる。多感な時期に直面する性的なものへの嫌悪感と、両親のセックスによって生まれた自分という存在の間での葛藤。17歳の純真さゆえに苦悩するバイを演じているのは現在27歳の女優・程予希である。若いころのレイと一人二役で演じているのだが、この映画の見どころは彼女の軽やかで魅力的な表情でもある。映画を観ている私まで彼女に恋をしてしまいそうである。
映画『若葉のころ』は、17歳の少女バイと、17歳だった頃のバイの母・レイの初恋を描いた物語だ。ノスタルジーへと誘う甘美なピアノの音色。白い足をさらけ出して駆け回る少女たち。そして彼女たちをとり囲うように青々と茂る木々。スクリーンからは始終、瑞々しくてまぶしい青春の形象(イメージ)が放たれている。ビージーズの「若葉のころ」がテーマ曲で、その歌詞とメロディが映画の中で巧みに挿入される。監督は周格泰という、これまでアーティストのMV制作を数多く手がけてきた人物。酸いも甘いも経験して“大人になってしまった”二人(レイと初恋の相手・クーミン)と、手を触れることさえためらった17歳の頃の二人の手紙を読み上げる声が重なり、瞬く間に時間が巻き戻されてゆくクライマックス。そこからエンドロールにかけての音と光、スローモーション等々を駆使した映像がとりわけ美しく、そこだけでも十分作品になりそうだった。
交通事故に遭い意識が醒めない母にバイは語りかける。「誰かを好きになるって、こういうことなのかな?」バイは同じ学校の男子生徒に好意を抱いていた。だが彼女の友人もまた同じ人を好きになってしまったために、バイは胸の張り裂けるような悲しみの底に突き落とされる。多感な時期に直面する性的なものへの嫌悪感と、両親のセックスによって生まれた自分という存在の間での葛藤。17歳の純真さゆえに苦悩するバイを演じているのは現在27歳の女優・程予希である。若いころのレイと一人二役で演じているのだが、この映画の見どころは彼女の軽やかで魅力的な表情でもある。映画を観ている私まで彼女に恋をしてしまいそうである。
つい先日、現在台湾で放送中のオムニバスドラマ≪滾石愛情故事≫(ロックレコードと恋人たち)の第九話≪挪威的森林≫(ノルウェーの森)を観ていて、そこに登場したのが同じく双子の姉妹を一人二役で演じる程予希だった。親の借金を返すために援助交際をさせられている非行少女(姉)と、音楽の才能がありながらも自閉症を抱えて学校に通えず、姉と同様に体を売ることを強要されている少女(妹)。補導員として働く青年に出会い、徐々に心を開いていく妹の繊細な表情にも、むごい現実から逃れられないまま、おざなりの正義感で更生させようとしてくる青年と泣きながらぶつかり合う姉の姿にも、ぐっと惹きつけられるものがあった。次の出演作もぜひチェックしたい。
話は映画に戻る。バスケットボールのコートで一人通り雨に打たれながらシュートを打つ若き日のクーミン。そしてあの頃の記憶に触れ、思わずそのコートで大の字になるおじさんクーミン。体中に激しい雨が打ち付ける。このシーンでクーミンの体を濡らす雨粒をはじめ、友人ウェンと意中の人シェンシーとの屋上でのやり取りを見てしまったあとのバイが自分で自分にぶっかけるホースの水、17歳の少女たちがはしゃぐ雨上がりの水たまり等々、ここでは水というものがイノセントな存在に還るための媒介のような意味を持っている。バイとレイは母子で俳優も同じだから対比して見がちだが、後に退学の原因となる事件の現場に居合わせてしまったクーミンと、屋上の出来事を見てしまったバイとが経験した衝撃には似通った部分があるように思う。どちらも男女の性に関わることであるし、なんだか、そのへんのごちゃごちゃを経験することがイノセントなものとそうでないものを分かつのだと言わんばかりに描かれている気がする。(まあその通りといえばそうか)
事件のあと、クーミンはレイの家にやってきて路地で涙ながらにレイを抱きしめようとする。レイは驚いて後ずさりするが、ただならぬ様子を察してゆっくりとクーミンに近づき、抱きしめ合う。二人の影はクーリンチェの少年と少女を思い出させる。監督は日本語版パンフレットのインタビューの中でも、一番影響を受けた監督として侯孝賢と楊德昌を挙げている。少なくともこの映画は悲劇ではなく、甘くて切ない記憶の物語だが、この辺は意識して撮られているのかもしれない。(あと監督は≪戀戀風塵≫が好きだそうだ)
レイとクーミンが通う学校の屋上で、少年がラッパで羅大佑の<童年>という曲を吹いているシーンがある。続けておじさんクーミンとその悪友がバーで童年をでかい声でうたい、若い客がうるさいといって喧嘩になる。これも世代の差である。おじさんたちにとってノスタルジックな気分にさせてくれるその曲の良さは、ある世代より下の子たちにはおそらく通じない。とはいえ、最近の台湾映画やドラマでは、そういうある世代層にはどんぴしゃで懐かしくてたまらなくなるような懐古ものが受ける傾向にあるらしい。たとえば≪那些年,我們一起追的女孩≫(あの頃、君を追いかけた)、≪我的少女時代≫(私の少女時代)、≪我的自由年代≫(英題:In A Good Way)、≪1989一念間≫(英題:Back to 1989、勝手に邦題候補:1989年の君へ)などなど。どれも1980年~90年代を時代背景とする。どんなに懐かしくても過去に戻ることはできないのが常だが、1989一念間に至っては主人公の男の子が1989年にタイムスリップして産みの母の秘密を探り、時には未来を変えようとさえしてしまう。時をかける少女ならぬ時をかける青年である。そういうものを観ていて、劇中の挿入歌やファッション等々の時代背景という点ではどんぴしゃじゃない世代からも支持されることになるのは、“もう戻らぬあの頃”に対する後悔や感慨は世代を問わず共有しうるものだから。私だって、台湾で生まれ育ったわけじゃないし世代も違うけど、『若葉のころ』観ながらなんだかノスタルジックな気分になっちまいました。まだ20年そこそこの人生、されど恋の一つや二つあるもんなあ。ああ余計なこと書いてまう前に切り上げよ!とりあえずDVD出たら買うと思います。
公式サイトで予告が観れる。
そういえば、『若葉のころ』のウェン役で≪1989一念間≫の葉真真こと邵雨薇が出演していた。1989での失恋して涙するシーンが印象的で、なんてきれいに泣いてくれるんだと思ってたけど、若葉のころでも冒頭で早速泣いてるシーンがあった。おもしろいくらいきれいに涙が落ちます。
Wednesday, 18 May 2016
『台湾新電影時代』を観てきたけど、今まで思ってたほど侯孝賢の映画が好きでもないことに気づいた
4月下旬から新宿のK's cinemaで「台湾巨匠傑作選2016」と題して台湾ニューシネマの作品と関連する台湾映画がいくつか上映されている。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と楊德昌(エドワード・ヤン)の作品を中心として、蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)、李安(アン・リー)、魏德聖(ウェイ・ダーション)の作品なんかが観れる。勇んで三回券を買ってあったものの、いろいろあって行きそびれていたらもう上映が終わっちゃった作品とかあって残念なのだが、幸い、一番気になっていた『台湾新電影時代』(2014年)を今日、観ることができた。これは台湾ニューシネマと呼ばれる作品群を撮った監督や映画にゆかりのある人たち、あるいはそれらに深い影響を受けた海外の映画人たちにインタビューを行い、台湾ニューシネマ再考の手掛かりにするという内容のドキュメンタリー映画だ。台湾人の謝慶鈴という監督が撮ったもので原題は《光陰的故事─台灣新電影》。インタビューを受けた人物の中には、日本からだと侯孝賢の『珈琲時光』に出演した浅野忠信や、映画監督の黒沢清、是枝裕和がいる。タイ、フランス、中国、香港といった台湾外の人たちから台湾ニューシネマがどのように観られてきたのか、ということが知れておもしろかったが、特に気になった話が一つある。
中国の映画監督王兵と楊超の二人が登場するシーンで、彼らが台湾ニューシネマの作品と、中国の第五世代の監督たちの作品とを対比させながら語っている姿がある。彼らは第五世代として張芸謀と陳凱歌を上げ、特に王兵(の方だったと思う)は陳凱歌の『覇王別姫』と侯孝賢や楊德昌らの作品とを比べて以下のような見方を話していた。曰く、『覇王別姫』は“物語”を描いた作品であって、あの映画には“台詞”しか映されていない、そこには“人”がいない。一方で、台湾ニューシネマの中には他ならぬ“生身の人間”がいると。それに対し楊超が、じゃあ覇王別姫の登場人物である蝶衣や段は人じゃないっていうのか?と半ば食い気味で問いかけつつも、確かにあの作品は歴史主義に偏りすぎている、と言う。そして、これらこそ第五世代の監督たちが直面せざるを得なかった限界である、というような。
『覇王別姫』はわたしが好きな中国映画の一つだ。まだ中国語なんて勉強したことないうちから偶然WOWOWかなんかで観たことがあって、当時、海外の映画=ハリウッド映画だった高校生のわたしの映画観がバッコーンと打ち砕かれたような経験をした覚えがある。何度観ても飽きず、いまだに泣きながら観てる気がする。泣けるから良いって言いたいわけじゃないし、むしろ最近映画とか小説の広告でよくある「これは泣ける!」みたいな謳い文句はむしろ嫌いだし、できれば感情の安売りはしたくないんだが。ともあれ、好きな映画だったし、わたしには登場人物がいつでも“生身の人間”として迫ってくるように思えてたから、王兵の言ってたことってどういうことやねんろ、と気になった。言うまでもないが覇王別姫は歴史ドラマだ。民国政府時代、抗日戦争、国共内戦、中華人民共和国の成立、文化大革命というように、歴史の教科書に出てくる時代区分できれいに切り分けることができるように場面も移り変わる。それが中国という土地の近現代史を主題にしていることが一目で分かる。社会情勢が変わり、京劇とその役者たちも時代の波にあっちゃこっちゃへと流される。たしかに、そう考えたら人物はでっかい歴史を語るための駒のような扱われ方されててかわいそうかも。
6本の指をもって生まれた蝶衣が、母親にその6本目の指を切られて劇団に預けられたことは、後から考えれば彼が女形の役者として生きていく道を選ぶことを象徴的に示すための“去勢”の儀式に思える。でも彼の指を切ったのはあくまで産みの母親の意思であって、そこには自身の力では抗いようのない、生まれながらにして背負わされた「宿命」のようなものがあることを感じさせる。それこそ覇王別姫に登場する人々を逃れようのない結末に向かわせるものの正体であって、その悲哀が観ている者の胸を打ち、時に涙させる。
アヘン絶ちをしようとして発作に苦しんでいる蝶衣を菊仙が抱えてあげるシーンが特に好きである。蝶衣は自分を棄てた母親のことが忘れられないらしく、うわごとで母を呼びながら寒い寒いと言う。それを菊仙が抱きかかえるようにして布団かなんかを巻いてあたたかくしてあげようとする。流産して母親になれなかった菊仙が、まるで母親になったように蝶衣を我が子のようにして抱いている。ずっといがみあっていた二人がこのシーンだけでは互いを求めあっているかのようにも見える。菊仙は女郎上がりなので蝶衣の実の母とも共通点があるし、本来ならこの二人は、自分が必要としながらも欠いているなにかを補いあうことのできる者同士なのでは?この二人実は仲良くなれるのでは?という気持ちになる。でも二人の間には段という男がいて、段をめぐって敵対が続くんだな。
「覇王別姫には台詞しか映されてない」の意味を理解したくて作品をまた観てみたが、ぐいぐい映画の世界にもってかれて、本題を忘れていた。そうなってふと思ったのは、侯孝賢の映画やったらあんまりこうはならへんよな、ってことだった。最新作の『黒衣の刺客』なんて、もはや映像を観ているというより、とことん区切られた細切れの絵か写真かを連続的に観せられているようで、一つ一つの画面を切り取ると、それは絵のように味があっていいのかもしれないんだけど、映画として観るとわたしにはどうしても退屈だった。ドキュメンタリーのインタビューの中でタイの映画監督が、侯孝賢の映画は眠くなるって言ってたけど「ほんまそれやで!」って思ったのは台湾映画好きな人でもわたしだけじゃないはず。そうこう考えていてふと気づくのは、自分が自分で思っている以上に映画に対してドラマ性を求めてるってことだ。だから結局、侯孝賢よりも楊德昌の作品の方が好きなんだよなおれは。芸術性とかじゃなくて好みの話です。楊德昌の『カップルズ』が好きでDVDを手に入れたいとずっと思っているんだが、アマゾンで観ても中古が数万とかで目が飛び出そうになった。今回の台湾映画イベントでも上映作品にも入っておらず残念極まりない。版権の問題とかややこしいことになってるんだろうな…。個人的にはあの映画は張震がみじめに泣く羽目になるところが見どころやと思っています(なんて意地の悪い)。
なんか台湾映画の話するはずやったのにほとんど覇王別姫の話になってるやんな。
あと、細かいことを言うのですが、字幕で「本省人」を「内省人」と間違えていたり(冒頭で詫びられてた)、林懐民のインタビューの中で彼が「郷土文学」と言っていたのを「国民文学」としていたりというのが気になっちゃいました。内省人なんていう凡ミスはともかくとして、限られた文字数の中で台湾にさほど詳しくない観客にも分かりやすく違和感なく観てもらうために字幕を考えるのはめちゃムズカシイことなんだって、最近字幕翻訳の勉強してて日々感じるんだけども、改めて痛感した。「郷土文学」って言われても、台湾文学をかじったことがなければパッとイメージできないだろう、ってことで「国民文学」になったんだろうか。でもむしろ、「国民」って言葉から短絡的にイメージされるものって、郷土文学と呼ばれてる作品の中身からはかなり遠い気がするんだけど。中華民国の文脈への帰属意識から書かれたものではないし、総じて農村の暮らしだったり、低層の人々だったりにスポットを当てて、台湾というふるさとに根差した人々の生活が書かれた小説と理解しているので、郷土文学のままでいいんじゃないかと思ったりしたんだが。なんで「国民文学」にしたのか字幕翻訳者さんにたずねてみたいです。
中国の映画監督王兵と楊超の二人が登場するシーンで、彼らが台湾ニューシネマの作品と、中国の第五世代の監督たちの作品とを対比させながら語っている姿がある。彼らは第五世代として張芸謀と陳凱歌を上げ、特に王兵(の方だったと思う)は陳凱歌の『覇王別姫』と侯孝賢や楊德昌らの作品とを比べて以下のような見方を話していた。曰く、『覇王別姫』は“物語”を描いた作品であって、あの映画には“台詞”しか映されていない、そこには“人”がいない。一方で、台湾ニューシネマの中には他ならぬ“生身の人間”がいると。それに対し楊超が、じゃあ覇王別姫の登場人物である蝶衣や段は人じゃないっていうのか?と半ば食い気味で問いかけつつも、確かにあの作品は歴史主義に偏りすぎている、と言う。そして、これらこそ第五世代の監督たちが直面せざるを得なかった限界である、というような。
『覇王別姫』はわたしが好きな中国映画の一つだ。まだ中国語なんて勉強したことないうちから偶然WOWOWかなんかで観たことがあって、当時、海外の映画=ハリウッド映画だった高校生のわたしの映画観がバッコーンと打ち砕かれたような経験をした覚えがある。何度観ても飽きず、いまだに泣きながら観てる気がする。泣けるから良いって言いたいわけじゃないし、むしろ最近映画とか小説の広告でよくある「これは泣ける!」みたいな謳い文句はむしろ嫌いだし、できれば感情の安売りはしたくないんだが。ともあれ、好きな映画だったし、わたしには登場人物がいつでも“生身の人間”として迫ってくるように思えてたから、王兵の言ってたことってどういうことやねんろ、と気になった。言うまでもないが覇王別姫は歴史ドラマだ。民国政府時代、抗日戦争、国共内戦、中華人民共和国の成立、文化大革命というように、歴史の教科書に出てくる時代区分できれいに切り分けることができるように場面も移り変わる。それが中国という土地の近現代史を主題にしていることが一目で分かる。社会情勢が変わり、京劇とその役者たちも時代の波にあっちゃこっちゃへと流される。たしかに、そう考えたら人物はでっかい歴史を語るための駒のような扱われ方されててかわいそうかも。
6本の指をもって生まれた蝶衣が、母親にその6本目の指を切られて劇団に預けられたことは、後から考えれば彼が女形の役者として生きていく道を選ぶことを象徴的に示すための“去勢”の儀式に思える。でも彼の指を切ったのはあくまで産みの母親の意思であって、そこには自身の力では抗いようのない、生まれながらにして背負わされた「宿命」のようなものがあることを感じさせる。それこそ覇王別姫に登場する人々を逃れようのない結末に向かわせるものの正体であって、その悲哀が観ている者の胸を打ち、時に涙させる。
アヘン絶ちをしようとして発作に苦しんでいる蝶衣を菊仙が抱えてあげるシーンが特に好きである。蝶衣は自分を棄てた母親のことが忘れられないらしく、うわごとで母を呼びながら寒い寒いと言う。それを菊仙が抱きかかえるようにして布団かなんかを巻いてあたたかくしてあげようとする。流産して母親になれなかった菊仙が、まるで母親になったように蝶衣を我が子のようにして抱いている。ずっといがみあっていた二人がこのシーンだけでは互いを求めあっているかのようにも見える。菊仙は女郎上がりなので蝶衣の実の母とも共通点があるし、本来ならこの二人は、自分が必要としながらも欠いているなにかを補いあうことのできる者同士なのでは?この二人実は仲良くなれるのでは?という気持ちになる。でも二人の間には段という男がいて、段をめぐって敵対が続くんだな。
「覇王別姫には台詞しか映されてない」の意味を理解したくて作品をまた観てみたが、ぐいぐい映画の世界にもってかれて、本題を忘れていた。そうなってふと思ったのは、侯孝賢の映画やったらあんまりこうはならへんよな、ってことだった。最新作の『黒衣の刺客』なんて、もはや映像を観ているというより、とことん区切られた細切れの絵か写真かを連続的に観せられているようで、一つ一つの画面を切り取ると、それは絵のように味があっていいのかもしれないんだけど、映画として観るとわたしにはどうしても退屈だった。ドキュメンタリーのインタビューの中でタイの映画監督が、侯孝賢の映画は眠くなるって言ってたけど「ほんまそれやで!」って思ったのは台湾映画好きな人でもわたしだけじゃないはず。そうこう考えていてふと気づくのは、自分が自分で思っている以上に映画に対してドラマ性を求めてるってことだ。だから結局、侯孝賢よりも楊德昌の作品の方が好きなんだよなおれは。芸術性とかじゃなくて好みの話です。楊德昌の『カップルズ』が好きでDVDを手に入れたいとずっと思っているんだが、アマゾンで観ても中古が数万とかで目が飛び出そうになった。今回の台湾映画イベントでも上映作品にも入っておらず残念極まりない。版権の問題とかややこしいことになってるんだろうな…。個人的にはあの映画は張震がみじめに泣く羽目になるところが見どころやと思っています(なんて意地の悪い)。
なんか台湾映画の話するはずやったのにほとんど覇王別姫の話になってるやんな。
あと、細かいことを言うのですが、字幕で「本省人」を「内省人」と間違えていたり(冒頭で詫びられてた)、林懐民のインタビューの中で彼が「郷土文学」と言っていたのを「国民文学」としていたりというのが気になっちゃいました。内省人なんていう凡ミスはともかくとして、限られた文字数の中で台湾にさほど詳しくない観客にも分かりやすく違和感なく観てもらうために字幕を考えるのはめちゃムズカシイことなんだって、最近字幕翻訳の勉強してて日々感じるんだけども、改めて痛感した。「郷土文学」って言われても、台湾文学をかじったことがなければパッとイメージできないだろう、ってことで「国民文学」になったんだろうか。でもむしろ、「国民」って言葉から短絡的にイメージされるものって、郷土文学と呼ばれてる作品の中身からはかなり遠い気がするんだけど。中華民国の文脈への帰属意識から書かれたものではないし、総じて農村の暮らしだったり、低層の人々だったりにスポットを当てて、台湾というふるさとに根差した人々の生活が書かれた小説と理解しているので、郷土文学のままでいいんじゃないかと思ったりしたんだが。なんで「国民文学」にしたのか字幕翻訳者さんにたずねてみたいです。
Thursday, 11 February 2016
《我的少女時代》感想
本当は最近ハマってる台湾ドラマ《愛上哥們》で主役やってる女優さん賴雅妍の出演映画《等一個人咖啡》が観たいのだけど、ネット上で見られるものが見つからない。この映画で主演してるのが宋芸樺という1992年生まれの若い女優さん(年齢的には自分と3歳しか離れてないのだが80年代と90年代じゃ月とすっぽんくらい違う気がして)。で、彼女が主演した最新作で《我的少女時代》(私たちの青春)というのがたまたまネットで観ることができたので代わりに観てみた。簡体字字幕だったけど。
サービス残業で上司にこき使われ、恋人との関係もなんだかうまくいっていない様子の主人公が、あのころの自分が今の自分を見たら…なんてことを考えて、学生時代のことを思い返すところから物語が始まる。主人公の林真心が女子高校生だったころ。友達と好きなアイドル、スターの話をしては盛り上がり、旦那様だ王子様だなんだと言っては胸をときめかせていた。彼女もそういう“恋する乙女”のひとりで、香港のスター、アンディ・ラウの大ファンだった。実は校内にも憧れの王子様がいる林真心は、ひょんなことからその王子様とは正反対のタイプの不良男子と友達になる。互いの恋路に協力することで意気投合した二人は、なんだかんだで意中の人に接近するのだが、だんだんそれぞれの心の中にある互いに対する特別な感情に気付き始めるのだった…
ってなわけでいわゆる青春モノですけれども、台湾映画はこういうのんがほんと得意だなーというか、むしろ『あの頃、君を追いかけた』に始まり昨今は一際そういう路線のものが多いような気がしている。たぶん台湾大衆からのウケがいいからだと思うけど。それで私もまたこういうのは嫌いじゃないので観てしまうし楽しめる。一番胸アツだったのは挿入歌に鳳飛飛の『追夢人』が流れたことで、ああ、やっぱこの曲が流れたとして、一定数の観客が青春時代を連想できるほどには、時代の代表作だったのだな、と感じた。もちろん最後に憧れの大スターが登場してしまうところも「まじかよ」と思ったし、監督の本気度が垣間見れた気がしてよかった。そこに至るまでの、青春時代のほろ苦い思い出もまた噛むほどに味が出るような切なさがあってよい。観終わって何が得られるわけでもないが、こういうのがないと、台湾映画は楽しくないな、と思う。
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