Tuesday 28 June 2016

最近観たやつメモ6月28日

最近観た邦画三本。


『駆込み女と駆出し男』

大泉洋がわけのわからん作り話の長ゼリフを言うところが良かったです。江戸時代は離婚の主導権が夫側にあったらしく、どうしても離婚したい訳アリの女が最後の手段として駆込んだのが縁切寺「東慶寺」。じょごのパワフルさに脱帽。一生懸命働ける女は強い。井上ひさしの『東慶寺花だより』というのが原作だそうで、こっちを読んでみたい。


『ピースオブケイク』

白状するとヒゲ綾野剛が見たいがためにDVDを借りた。かっこよかったです、ありがとうございます。簡単に言うと、流されて恋愛してきた女の子が本気で好きになった人と恋に落ちたけど信用できなくて一回別れてまた付き合う、みたいな話でした。人が良くて寂しがりでへらへらしている男(三十路過ぎ)を演じている綾野剛がただかっこいいというだけの映画だった。京志郎が友人の借金のために店の売り上げからお金をガバッて渡すところで志乃ちゃんが「一生ついていきます!」とか言っちゃってるシーンでは「おいおい、あかんで、これあかんタイプの男やで」とつい口に出てしまった。最近はドラマや映画の中で女子たちが恋愛や結婚について話しているシーンになるとあまり共感できないことが多く、むしろ突っ込みを入れてしまう。歳か。


『海街diary』

是枝さんの映画は『誰も知らない』(2004)、『空気人形』(2009)、『そして父になる』(2013)しかまだ観てないんやけど、どの作品でも毎回共通して家族関係のような親密な人との関係性を問われている気がした。母親が出て行ってしまって残された血のつながらない子どもたちだけでマンションの一室で生きしのいでいくという話、セックスドールと同棲生活を送っている男と人間の心を持ってしまったそのセックスドールの話、血のつながった息子と数年間我が子として育てて一緒に暮らしてきた息子とどっちを選ぶかみたいな話。そして『海街diary』も、姉妹三人プラス腹違いの妹が父親の死をきっかけに一緒に暮らし始める話と。どれも、家族や恋人と聞いてパッと想像しうるようなものとは違う関係性の中で暮らす人たちがいて、むしろ常識からすると破たんしていたりする人間関係、人と人のつながりが映し出されている。当たり前、普通、と思っていたものがある日急に揺るがされる感覚。そこまでどぎつくないけど。

海街diaryでは女四人が集まって一緒に住んだらいくら姉妹とはいえ息苦しくて誰か脱落してしまいそうなものを、四人がそれぞれ欠けてはいけないピースのように、喧嘩しながらも和気あいあいと暮らせているんだから驚きだ。木造日本家屋の庭付き一軒家がまるで取り残された女たちの城のようにも見えてくる。わたしも一緒に暮らしたい。仲間に入れてください。でも、そこに入り込みたくなるようでは生ぬるい。ぎすぎすしていない。みんなやさしい人たちばかりが登場する。姉妹も、食堂のおばちゃんも、カフェのおじさんも、銀行の上司も…そういえばレキシの池田貴史が出演していたので吹いた。あれは反則だ。普段、稲を振っている方に馴染みがある人が見たらそりゃ吹いてしまう。イラっとするのは、やさしそうに見えて本当はやさしくない人だ。長女・幸と微妙な関係にあるのは精神的な病を抱えた奥さんと離婚しきれない男。堤真一が朗らかに演じていて、ヤワなというか、毒のない、あいつ悪いやつではないんだけど、という感じの雰囲気が、妙に気に入らない。ついに離婚して、幸を連れてアメリカにわたりたいとか言い出す。でも幸は三人の妹たちとの暮らしを選ぶのだった。うん、それがいい、と心底思った。


ピースオブケイクも海街diaryも漫画原作であった。漫画原作多いなー。
アナキストの本読んで殺伐とした気持ちになっていたところで海街diaryを観たのでマシュマロに挟まれたビスケットの気分である。(あれ?ビスケットでマシュマロ挟むんだっけ?)

Monday 27 June 2016

台湾映画『太陽の子』を観てきた―台湾原住民の問題を知るきっかけに

先日、台湾映画『太陽の子』の上映会に行ってきた。これまた台湾文化センターにて。朝日新聞を経て現在フリージャーナリストの野嶋剛さん大絶賛で、彼の力があって日本での上映が叶った。今後も色んな場所で順次上映されていくようだ。

この映画は台湾原住民・アミの家族とその村の物語であり、台湾社会における原住民をめぐる様々な問題を、穏やかなタッチでありながらも鋭い視点から描いた作品だ。故郷の村に子ども二人と父親を残し、台北で働いていた子どもたちの母・パナイ。彼女は父親の病気をきっかけに帰郷し、耕す人がいなくなりホテル建設のために売られようとしていた自分たちの土地を蘇らせようと東奔西走する。実話を基にした作品で、2013年にはパナイのモデルとなった人物の息子であるレカル・スミさんが『海稻米的願望』というドキュメンタリー映画を制作している。それを観て感動した映画監督の鄭有傑さんがレカルさんとともに新たに映画を撮ったといういきさつ。

映画を観る前に、台湾での原住民たちが置かれている状況や、原住民の土地をめぐる争議についてちょっと知っておいた方がいいかもしれない。

漢民族が本格的に移民してくる前から、原住民たちは長い間台湾で暮らしてきた。入れ代わり立ち代わりする支配者とそれに伴う社会の移り変わりの中で、本来原住民が暮らし、耕し、生命をつないできたはずの土地は、彼らの手から無残にも奪われてきた。(もちろん植民地支配した日本も無関係ではない)1980年代以降、「土地を返せ!(還我土地!)」という原住民たちからの訴えが上がり、近年でも度々問題視されてはいるものの、台湾人口の2パーセント前後でしかない原住民たちの声がないがしろにされることは少なくない。映画でも、土地の所有者であるはずのおばあさんの登記書が「台風で飛ばされた」という理由で役所から忽然と消え、その所有が認められず、無理やり公共工事を進められてしまうという出来事がある。本当に飛ばされたというなら杜撰にもほどがあるし、実際は嘘八百で単に土地をとりあげて国有にしたかっただけである。しかも、こういう出来事はフィクションだけの話ではない。私は四年前に花蓮の原住民の村にお邪魔し、そこで土地問題に取り組むご年配の夫婦にお会いした時も同様のお話を聞いた。企業側と役人が組んで土地の所有権を放棄させ、奪い取り、コンクリート工場を建て、周辺の環境も汚染する。まったくもってむごいしせこい。

とはいえ、先祖代々受け継がれていた土地を泣く泣く売ってしまう人たちがいるのも事実で、映画の中の風景には、道路わきなど至るところに「土地売ります」という看板が立てられている。田舎では仕事がないから、若い人たちは都会へ働きに出る。そうして田畑を耕す労働力が失われ、土地は荒れ果て、ホテル建設を目論む資本を持った事業主に売りさばくことぐらいしか、残された人たちには手立てがない(生活のこともあるしね!)。でもそれじゃあいかん。ここは私たちの土地だ。私たちの手で稲穂に満ちた田んぼをよみがえらせるのだ!と立ち上がるのがパナイであり、パナイの訴えに心を動かされた村の仲間たちである。彼らも最初から賛同していたわけではない。荒れ果てた土地に稲を植えるためもう一度耕すにはそれなりに資金もいるし、壊れた水路の整備をすることから始まり、作業は生ぬるいものではない。めでたく米が収穫できたとしても、それが売れるという保証はどこにもない…いろんな壁があり、もちろん反対する人も出てくる。無理だといって一蹴していた人びとを、パナイがアミの言葉で涙ながらに説得する姿。彼女の熱い訴えに、徐々に場の空気が変わっていく様子が映像からひしひしと伝わってきて、つい私まで涙がこぼれる。

映画を見終えて、台湾の原住民の暮らしと自然との関わり方、アミニズムのような信仰、原住民とアイデンティティの関係について改めて興味をひかれた。同時に、以前読んだ台湾の蘭嶼島に暮らす原住民・タウの作家であるシャマン・ラボガンさんの小説と、イベントで聞いたシャマンさんの言葉を思い出していた。シャマンさんも故郷を出て台北に進学し、卒業後もしばらくタクシー運転手などをして働いていたことがある。その後、体調を崩すなどして家族とともに故郷に戻ることを決意。蘭嶼島に戻ったとき、タウの男でありながらタウの男としての生きる技術(木を伐り、船を作り、漁をする等々)をなんら身に付けられていないことを思い知り、失ったアイデンティティを取り戻すためにひたすら海に潜り始める。海という大自然との共生の始まりだ。シャマンさんの小説には彼自身が海とともに暮らす日々が描かれており、限りなくノンフィクションに近いフィクションの物語である。一方、『太陽の子』ではパナイの娘・ナカウが、陸上の試合を前にして自信を失いその場に座り込んでしまうというシーンがある。そこでパナイはナカウに強い口調で何度も「あなたは誰?」と問う。ナカウは一瞬戸惑ったかのように見えたが、ぼそぼそと、それから徐々に声を張り上げて答えた「パンツァー!(アミ)」 そうして何かの決意に満ちた表情を携えナカウはスタートラインに立ち、走り出す。

どうやら自分はどうしてもアイデンティティに関わる話に興味がいってしまうようで、こういう人物たち、あるいは映画のワンシーンに出会うと、私はなんとなくうらやましいと思ってしまったり、なんとなく感動してしまったりする。台湾人が台湾人アイデンティティを言うときにも通ずるが。なぜ彼らがそうやってアイデンティティを切望したり、自己を何らかの民族であると意識することで胸を熱くするかというと、彼らとは異なるアイデンティティを持つ「他者」の存在のために不利な立場に置かれるという切羽詰まった現状があるからである。そこにはある次元での圧倒的な力関係の差があり、優位な方はそうでない方をその次元に取り込んで、各々が実は異なる価値観や誇りを持った「他者」であるという事実を包み隠そうとする。私たちは仲間なんだと優しい素振りで声を掛けるが、そこに対等な関係性があるとは限らない。いつの間にか相手の論理でゲームをさせられて、流れについていけずに置いてけぼりを食らうのがオチ。そういう状況で敢えて境界線を引くのは、勇気もいるけど自信にもなる。輪郭を描いて、自分が何者であるかという意識を強くすることによって、むやみやたらと自分たちに有利なゲームに取り込もうとしてくる「他者」に抗うことができる。原住民の問題だと、境界線の向こうにあるのは「本省人」とか「漢民族」とかで、台湾が意識する先には中国という存在がある。でもそんな分かりやすい民族とか国家の対立構図だけではなくて、もっと普遍性のある問題をあぶり出すことにもなる。それはあまりに進みすぎた経済発展最優先の資本主義の在り方であったり、多様性という衣をまとって統合しようとしてくる政府の文化政策であったり、いろいろである。私はナショナリストではないし、どちらかというとナショナリズムには懐疑的なところがあるけど、軍事力なり経済力なりなんなり、己の持っている資源のでかさに物言わして「他者」を従わせようとしてくる奴らに対しては、ナショナリズムでもなんでもうまく活用して対抗してやらんと、と思うところもある。一方で、そういう政治に深く絡みそうなアイデンティティの話とは別に、単純に、自分が何者であるかということを強く意識できることは自分の力になるし、なにものでもない不安定感をやわらげ、地に足付いたような感覚にさせてくれるってことで、自分にもそういうのがあれば、なんて思ってうらやましさが湧いたんだと思う。それは気休めでしかないんだろうけどね。

先に「シャマンさんは失ったアイデンティティを取り戻すために」と書いたが、アイデンティティって取り戻すとか見つけるとかいうより、選ぶとか決意するっていう動詞との親和性が強いように私には思える。自分の存在の方向性を選び、そちらに向かうことを決意する。決意すると視界がすっきりして、徐々に現状を打破する方法が見えてきたりする。何かに抗いつつ、自分のあるべき姿を見定めた人のパワーはいつもすごい。私にはこれが足りないんだよな…なんて。

ナカウは最後に台北の学校へ進学する道を選ぶ。これから都市へ出てゆく彼女は、パンツァーの心を持ち続けられるのだろうか。映画には関係ないけど、私には少し気になるところである。

今日も明日も負債負債

栗原康『現代暴力論』を読みながら日本の奨学金制度と自身が今後二十数年間かけて返済していかねばならない600万近くの負債について思いをはせている。貸与型の奨学金(そもそも奨学金と呼びたくないけど)なんて若者に「借りたんだから返せよ、まっとうに働いて返せよ、お前が返さないと次の若者が奨学金をもらえないんだからな」という負い目(社会一般では責任感とも言う)を感じさせることで成り立っているようなもんだ。実際成り立っているのかどうか怪しいところで、払えなくなってしまった人たちが社会の闇の中に消えていってるのも事実。極端なことを言えば、日本の奨学金制度はあくまで社会を回していくためだけ、再生産のためだけにある。決して一人一人の若者の夢や希望のためにあるんじゃない。そうやって貸与型のサイクルが成り立っている限りは、学生らが一応無事に学を修めて職にありついて何かしらの価値を生んでは対価としての賃金を得、その金で返済をしているということであり、世の中のサービスも経済も回りつづける(はず)だし、給付型の奨学金制度を整えるためにわざわざ工面して財源を組まんでよいのだから、政策決定者にとっては万々歳である。「え?借りたお金は返すのが常識でしょ?てゆか貸与型でも奨学金制度があるからこそ、貧乏でも学校に通えて教育が受けられるんだからそれに越したことないじゃん」っていう声が聞こえてくる。思うに、それが「奨学金」という名を借りたただの「借金」であるにも関わらず、進学のためのメジャーな経済的支援制度として普及しているところがあくどい。最初からはっきり借金と言ってくれればいい。高校三年の時、「普通はみんな奨学金受け取るものだから」という理由で申込書を書かされた。うちの家はそこまで経済的に厳しいわけでなかったのに。そこで申し込まなければよいものを、自分の頭で物事を考えることを知らなかった当時のわたしは、それが普通だからという理由で受け入れた。高校三年生のわたし。言われた通り勉強するだけのお受験脳だった。今は卒業して働きはじめ、毎月きちんと返済しているが、今後日本にこの制度がこのまま続いていくことには反対だ。借金を背負って勉学したところで、それを返すためにはそこそこ以上の企業に就職して働くことが必要になってくる。本当にやりたいことが別にあったとしても、負債があるから好きにできない、今の会社を辞めたいけど辞められない、払うまでは結婚も子どもも無理…身軽でない。一体何のために金を借りてまで大学を出たのか…という思いに駆られることもあるかもしれない。大学自体、ますます大金をはたいてまで通うほどの価値のある場所ではなくなってきている気がする。企業人育成のための大学ならいらない。だったらもうそのまま社会に出て働けばいいじゃない。なんだか話が脱線してきたが、わたしは借金を踏み倒すほどの勇気はないのできちんと返しますが、その負債がために自由に好きなことができないなんてことにはならないようにする所存です。以上。

Thursday 16 June 2016

はじめての蓄音機で台湾語歌謡を聴きながらあれこれと

「台湾語ポップス黄金時代のSP盤を蓄音機で聴こう!」というイベントに行ってきた。@台湾文化センター。今年は一段とイベント目白押しで、経済文化代表処の本気をビシビシ感じる。(いいぞいいぞ!そのうち吳寶春とかも来んかな!パン試食付きで!)

日本植民地時代の台湾の貴重なレコードを蓄音機を用いて聴くという主旨のイベントだが、台湾大学音楽学研究所に在籍中で植民地期流行歌の研究をしている林太威さんのほか、1990年代の「新台語歌運動」を担ったミュージシャンの一人、豬頭皮さんがトークイベントのためにやってくるということで、どんな話が聞けるかとワクワクしながら会場に向かった。

レコードを見て触ったことはあったが、蓄音機を使って聴くのはこれが初めて。イベントのために用意された蓄音機は選曲家・桑原茂一さんの私物。古い蓄音機はデリケートでゼンマイが切れて壊れやすいため、今回は電動式のものが使用された。「本来なら蓄音機の周りに数人で集まってじいっと耳をそばだてて聴くもの」だそうで、はしっこに座っていたわたしはせっかくだしと思っていそいそと蓄音機の真ん前まで近づいていった。蓄音機の蓋の内側には見覚えのあるワンちゃんの絵。ビクターの蓄音機だ。音のかすれた感じが、一枚のレコードが辿ってきた歳月を思わせる。予想よりも驚きがなかったのは、たぶん映画の中で流れる蓄音機の音を聴いたことがあったからだと思うけど、CDやなんかで聴くよりも音の波を感じられる気がした。

いよいよ豬頭皮が登場、さっそく「無醉不歸」(1999年カバー)を歌ってくれた。原曲は1935年、作詞:李臨秋、作曲:王雲峰。台湾文化センターはそもそも音楽ホールのような防音設備なんてないはず(前回宇宙人が演奏してた時は外に丸聞こえだった)なので、大掛かりな演奏じゃなくてYoutubeのMV流しながら歌うという感じだったけど、このライブなんてしなさそうなお堅いビルの一角で豬頭皮が端から端まで行ったり来たりして歌ってるってのがアンバランスでおかしかった。林さんも登場してみんなで「無醉不歸」のレコードを鑑賞。そうして林さんによる解説を交えながら「台北音頭」(これは日本語で、「東京音頭」をもじって在台日本人が台北への愛着を込めて作った曲だそう)、「蝶花夢」、「陳三設計為奴」、「望春風」、「雨夜花」、「月夜愁」、「補破網」と順に聴いていった。

豬頭皮曰く、1991年に台湾語の曲でCDデビューした彼の頭の中には常に台湾語歌謡が流れていたという。これらの曲の精神を創作に注ぎ込み、出来上がったのが「望花補夜」という曲だ。1930年代の流行歌―いまでは「老歌」=「懐メロ」とも呼ばれる―は専門家の研究では当時少なくとも500曲以上あったといわれている。その中でも長きにわたって台湾人に愛され、今なお歌われ続けている代表曲といえば「望春風」、「雨夜花」、「月夜愁」なんかが真っ先に挙げられる。豬頭皮の「望花補夜」は、代表的なこの三曲プラス第二次世界大戦後に創作された「補破網」からインスピレーションを受けてつくられたもので、それぞれのタイトルから一文字ずつとって命名された。まさしく、台湾語歌謡へのオマージュとして作られた作品である。「望花補夜」にも豬頭皮のユーモラスでおちゃらけた作風が満ち満ちていて、それはまるでしばしば「暗くて悲しい曲が多い」と言われてきた台湾語歌謡の既存イメージを吹き飛ばそうとしているかのよう。なんて思っていたら豬頭皮が書いた短い創作手記がありました。これによると、選挙戦の民進党応援演説の場で台湾語歌謡を演奏したときのこと、歌い終えた後である牧師さんが「もうこれから台湾(人)は悲しむ必要ないのだから、こういう悲しい歌は歌わなくてもいいんだ、引き出しにしまっておこう」と言ったのを聞き、豬頭皮がそんなら“悲しい歌”なんて言われている台湾語歌謡を新しく解釈しなおして、愉快で踊れるようなロックにアレンジしてやろう!と思い立ったそうな。「望春風」なんかが選挙の場で歌われていたことはよく聞いた話だけど、豬頭皮とかがわざわざ歌いに行ってたのか。

話を聞くうちに80年代末~90年代にかけての台湾語歌謡にまつわる音楽業界の変化とか、作品の時系列がこんがらがる。以前、ある方(日本人)が1980年代に台湾に行ったときのことを話してくださって、いわゆる党外活動をしている人たちがこっそり集まるような喫茶店とか食事できるような場所で、台湾語の曲を歌って士気を高めている人たちの姿が見られたそうな。そういうところでよく鳳飛飛の歌っている台湾語の歌がラジカセから流れてくるのを聴いたらしい。1977年と1986年にそれぞれ歌林唱片から台湾語歌謡のアルバムが出てるので、たぶんそのいずれかなんだと思う。鳳飛飛も昔の台湾語歌謡の発掘に尽力した歌手のうちの一人で、羅大佑プロデュースのアルバム『想要彈同調』も出してる(百代唱片EMI)。それが1992年8月のこと。その三年前、1989年には黑名單工作室が『抓狂歌』出してて、これが「新台語歌運動」の始まりと言われる。鳳飛飛も1992年のアルバムの中で台湾語の新曲を出しているけど、鳳飛飛のこういう音楽活動が新台語歌運動の範囲に含まれて語られることはない。鳳飛飛は台湾語で創作しても、そこに社会風刺、政治批判、ロックの精神なんとかかんとかって盛り込まない。鳳飛飛はよく、古い台湾語歌謡を改めて“ラッピング(包装)”しなおすことで、低俗と難癖つけられることさえあった台湾語歌謡の地位を高めたい、みたいなことを言ってた。新台語歌運動では台湾語歌謡が低俗かどうかはもはや問題ではなくて、台湾語で歌い、その中で何を訴えるかが大事やったんかな。方向性が全然違うよな。何とも言えない脱力感も。でも、だからといって当時の豬頭皮さん含め新しい世代の台湾語“ポップス”と、鳳飛飛のやってきたこととが無関係ではないだろうと思うんだが、そのへんのことを聞いてみたいと思いつつ質問がまとまらずチャンスを逃した。いつもこうです…

もう一、二か月後には林さんが副館長を務める『聲音光年1932』というレコード資料館がオープンする予定だそうだ。次台湾に行くときには足を運ばねば。それにしても、同じ空間で日本人と台湾人が、日本植民地時代の台湾語のレコードを聴くというのは、なんとなく不思議な心地がした。

あと関係ないけどこの本欲しい。ネットでちょっと読める。トーク聴いたあと、久々にまじめに勉強したくなった。

Sunday 12 June 2016

『追憶と,踊りながら』観た―コミュニケーションを撮ること

イギリス映画『追憶と,踊りながら』を観た。原題は“Lilting”。ウェブリオで検索したら「〈声・歌など〉軽快な(リズムのある)、浮き浮きした」と出てきた。そのタイトルや淡くやさしい色合いの映像とは裏腹に、どのシーンにも重たい空気を感じたのは私だけだろうか。

介護ホームに暮らすカンボジア系中国人のジュンは、亡くした一人息子・カイとの記憶の中に生きていた。そこに現れたのがカイの恋人・リチャード。カイとリチャードはゲイのカップルだったが、カイは自分がゲイであることを母親に打ち明けられずにいたのだった。カミングアウトしようと決めていたその日、カイは交通事故で帰らぬ人となってしまう。

リチャードは何かとジュンを気にかけ、ジュンが介護ホームで知り合った男性アランとコミュニケーションをとれるようにと、北京語と英語が話せる友人・ヴァンを連れてきて共に交流を始める。だがジュンはリチャードのことを毛嫌いしたままお互いの溝を埋められず、リチャードもまた、カイとの関係を打ち明けられずにいた。

気になったこと。

互いに話す言語を理解できない者同士が、通訳者を介してコミュニケーションをとろうとする構造について。そうすると、通訳者はプロではなく、どうしても言葉を発した者の伝えたかった元のニュアンスがうまく伝わらないことがある。それは時に滑稽なやりとりを生み出し笑いを誘うが、ジュンとリチャードとの溝が一向に埋まらない様子に、観ている側はやきもきさせられたりもする。また、カイとリチャードの関係性に関わることなど“伝えにくいこと”について、リチャードが「今のは訳さなくていい」と言ってしまえば、通訳者がそれを伝えることはなく、本来伝えたかったはずの事柄はコミュニケーションの継ぎ目からこぼれ落ちてしまう。相手の言語が分からない二人は通訳者を介すが、それによりコミュニケーションが万全になるとは限らない。むしろ、ムードを悪くして確執を深めてしまうこともある。最終的に二人が大事なことを話すとき、通訳者が間に入って訳することはなく、理解できないが互いに何かを伝えあっている、という状況が生まれる。

同じシーンを複数の角度から撮ることについて。事故に遭う前日、カイは介護ホームに訪れてジュンと何気ない会話をした。そこでのジュンとカイとのやり取りのシーンには、同じセリフでも二通りある。一つは、冒頭でジュンの記憶として蘇るもの。そこに映るカイの姿は少しやんちゃそうな、溌剌とした青年という感じ。これはジュンの視点から見たあの日=事故に遭う前日の、最後のカイの姿だ。もう一つは、中盤でやや断片的に流されるもの。ここではよりカイの心理に寄せて親子のやり取りが撮られている。次の日のディナーでカミングアウトすると決めていたカイの、少し強張った不安混じりの表情に、ジュンが気づくことはない。親子の間を閉ざすなにかがあったことを感じさせる。

ラストの仕掛けと、コミュニケーションの前提条件について。リチャードがついに、カイがゲイであったこと、自分がカイの恋人であることを伝えるシーン。想像しうるシナリオならば、このあとジュンはこう答えるはずだ。「本当はずっと前から知ってたのよ」「でもどう受け入れればいいか分からなくて、あなたに冷たく当たってたの」というように。そうして二人は静かに抱きしめ合い、互いの傷を深く理解し合う。それは観ている者にとってある種のカタルシスを味わうことのできる結末であるかもしれない。でもこの映画はそんな分かりやすい展開にはならなかった。ジュンは通訳者越しにその“事実”を聞くと、大きく表情を変えることはなく、かといってそれを知っていたというような素振りも見せず「私は愛する人のために嫉妬していたの」「あなたも子どもを持てばその気持ちがわかるはずだわ」と。リチャードは「あの時カイに車を使わせていれば事故には遭わなかったのに」とおそらく自分を責め続けていたであろう胸の内を語る。続けてジュンは「私は母としてただ(カイを縛り付けようとしたのではなく)カイのそばにいただけだった」と。ここで通訳は介されない。二人は互いが何を言っているか理解しないままだが、不思議と二人とも今は亡きカイに対する懺悔のようなことを話す。そして最後、ジュンは思わずリチャードに向けて「カイ…」と呼びかけるのだった。二人の間に共通言語は必要なく、ただ「カイを愛している」という前提だけがあれば、それで関係が成立するようだった。

リチャードを演じるベン・ウィショーという俳優は、数年前に自身がゲイであり、同性結婚をしたことを公表している。ゲイがゲイ役を演じることについてこんな記事があった。私はそういう背景を知らずに観たけどすばらしい演技だと感じたし、背景を知った後も、彼がこの役を演じることでLGBTに対する理解というような社会的な意味が作品に加わったり、そもそも作品としての厚みが出たりしてよりいいものになったんだなと思った。一方で、舞台(スクリーン)から降りた後の役者の素顔だったり、人となりだったりを知っておくことって、そんなに重要なことではないよなと思ったりもして。むしろ単純に楽しむためだけなら知らずに観る方がいいこともあるよなって。というのは、最近、伊藤英明が主演してるドラマ『僕のヤバイ妻』を観てて、あれ佐藤隆太が刑事役で出てるけど、伊藤英明と佐藤隆太のコンビって言ったら『海猿』のイメージが強すぎるじゃないですか。私なんて伊藤英明のファンでよく海猿のDVDについてくるようなメイキング映像とか欠かさず観るわけですよ。そうすると佐藤隆太のおちゃらけたキャラクター全開で、以後自分の中ではそのイメージが定着してしまい、捜査がうまくいかずに壁に拳骨ぶつけて声張り上げてる演技なんか観ても、なんかギャグにしか映らないのですよ。シリアスなセリフのあとに「な~んちゃって」とか言ってる佐藤隆太しか思い描けない。良くも悪くも。

ホン・カウ監督のインタビュー記事がある。イギリスの移民の問題とか、カンボジアから転々としてイギリスにやってきたという家族史のこととか、色々盛り込まれてて語り切られず。次回作も気になる。あとは「夜來香」がよかった。もう一曲中国語の曲出てきた。この記事によるとメキシコの曲の中国語カバーver.らしい。イー・ミンって歌手誰だろう?

Saturday 11 June 2016

台湾若手アーティストの映像作品『錢江衍派』について

台湾の若手アーティストの作品が展示されているというので行ってきた。テーマ『「私のふるさと南都」台湾の現代アート―国家の解体と拠り所の再建』。四人のチーム(王又平、李佳泓、黃奕捷、廖烜榛)による映像作品(全90分の映画)が試みとしておもしろい。作品名は『錢江衍派』。撮影に使用した建物の玄関にあった表札からとっているらしい。

ひまわり運動をきっかけに、自分たち(1990年代生まれ)と、その両親との間にあるジェネレーションギャップ、とりわけ社会運動への関心度やそれに参加するということに対する受け止め方の違いに気づき、両親たちの若いころはどうだったのか、なぜ彼らは80年代の台湾社会運動に加わらなかったのか、という疑問を出発点として作品が生まれた。

映像は、白色テロで入獄させられ、出所後も政治批判的な小説を書き続けた作家・施明正にまつわる出来事を脚本にし、自分たちの父親四人にそれを演じさせるというもの。政治的な事柄(あるいはのちに「台湾史」として語られる大きな出来事)に対して当時は無関心であるか、そういうものに関わる人たちを「異端者」と見なしてさえいた人が、自分でその「異端者」を演じている。父親たちは演じるうちに、脚本に書かれたこと以外の、彼ら自身の記憶をふいに語り出す。大文字の歴史と個人の歴史が交差する瞬間。施明正を演じたのは四人のうち当時警官であった父。施明正が「拷問を受けた」体験について語るシーンで、父は脚本に書かれていないはずの、自分が「拷問をした」体験からくる描写を口にしてしまう。一度も話したことのない父の記憶が、撮る/撮られる関係を通じて親子の間で共有される。それは痛みを伴うものかもしれないけれど。

誰か(特に実在の人物)を演じるというのは、その誰かが経験したであろう事柄を自身が再体験するということでもある。実際の自分との距離感があればあるほど演じるのは難しいかもしれないけど、演じることで自分からは遠いものであったはずの事柄が近く感じられたり、その人物との間に共感や共鳴のようなものが生まれたりするのではないか。演じ終えた後、父親たちはどういう思いだったのだろう。

Youtubeで予告版が観れる。

会場には四人のうち三人が来ていて、その中で22歳の女の子・廖烜榛さんと話すチャンスがあった。撮影時の雰囲気など話してくれたが、お父さんたちはもちろん演技の経験などなく、脚本も未完成のまま渡したため、一度の撮影に何時間もかかって非常にタフな作業だったという。その日は開幕式兼トークイベントだったので人の入りが多くてゆっくり鑑賞できず残念。時間を見つけてまたきちんと観たい。

『台湾とは何か』読みつつ、太陽花学運のこと思い出しつつ

二年前、台湾留学中にアメリカからきた留学生と台湾人のアイデンティティの問題についてちょろっと話をすることがあった。その留学生は「台湾人がいくら“台湾文化”だの“台湾アイデンティティ”だの言ったところで『台湾』っていう国家は存在しないのだからもう少し現実的になるべきだわ」みたいなことを言って、私はついムッっと顔をしかめてしまった。あの時は「こいつ、台湾で自分たちを台湾人だと思って生きている人々の暮らしをまるごと否定する気か?」と思って非常に憤慨し、感情的になったのだが、今になって冷静に振り返れば彼女は別にそういう意味で言っていたわけではないんだろうなと思う。ただただ現実的な考え方の人だったんだなと。彼女の言った通り、文化的なアイデンティティの選択肢としての「台湾」が存在しても、現実に国家体制としてそこにあるのは「中華民国」というもう一つの「中国」だ。彼女は、台湾の人たちはその現実を受け止めた上でもっと「中華民国」という体制を戦略的に使うべき、ってことを言っていたのかもしれない。この話と、野嶋さんが著書『台湾とは何か』の中で書いてた「天然独」の若者たちのこと、金溥聡の「中華民国は台湾の護身符です」という言葉、そして「大陸反攻を放棄し、台湾化した中華民国は、台湾の人々にとってはもはや『克服』すべき対象ではなくなりつつあるかもしれない」という野嶋さんの認識とが繋がって、色々となにかストンと腑に落ちるような思いがしたのだった。

私の友人のほとんどは1980年代後半~1990年代以降生まれの「天然独」世代である。そして彼らとの交流を起点とした私の台湾認識もまた「台湾が台湾でなくて何なのだ?」という素朴な感覚から始まっている。(細かいことを言えば、初めて台湾に行くまでは無知ゆえに台湾のことをすっかり中国だと思っていたのだが)そういうわけで、当初、台湾に出会ってから次に「中華民国」という台湾の“正式名称”を知ったときには少々頭が混乱したし、さらに「私たちは中国人じゃなくて台湾人なんだからね!」と普段から我々留学生に対して念押ししてくる友人が、10月10日に中華民国の国慶節をワイワイガヤガヤお祝いしている様子がフェイスブックのタイムラインに流れてくると余計に訳が分からなくなったりした。「台湾?中国?結局どっちなの?!」と。

その後、台湾史というものを勉強していく中で日本植民地時代を経てあやふやになった台湾の帰属問題や、中華民国の国際的社会からの孤立、中華民国「中華民国台湾化」という政治体制の緩やかな変動といった経緯を知り、また「台湾」という国を打ち立てるための台湾独立運動が燃え上がっては潰えを繰り返してきたことも知り、加えて友人たちとの交流が深まる中で、徐々にその戸惑いは薄れていった。一見矛盾してそうに見えた友人の言動も、その背景と照らしてみればそうならざるを得ないものだし、むしろ野嶋さんの言うように、台湾の友人にとって中華民国という国家体制は何も否定すべきほどのものではなく、“それが台湾を否定しない限り”受け入れていくもの、併存するものとしてある(なりつつある)のかもしれない。あと、「天然独」の世代にもグラデーションはあると思っていて、台湾は台湾だし独立して然るべきだけど中華民国の国慶節も祝うという友人もいれば、そうでない友人もいる。私が感じるところでは、前者は「台湾は台湾として独立した国だ」という皮膚感覚を持ち、台湾独立というスローガンに共鳴しつつも、現状維持志向が比較的濃厚な人たちで、グラデーションの大部分を占めている。後者は台湾独立を前向きに、具体的に実現させようと考えて行動している人たちで、グラデーションの端っこの方にいる。先の太陽花運動なんかで先導していたのはその後者の「天然独」世代たちなんだろうと大雑把にとらえている。

とはいえ、太陽花運動の話になると台湾独立 or NOTっていう二者択一を論点にしたがる人たちに対しては懐疑的で、日本での報道のされ方にも当時は随分と納得がいかなかったりした。いずれ太陽花運動のこと、あの場で見聞きしたこと、考えたことなどまとめなければと思いつつもう二年が経ってしまった。あの時ちょうど台北にいた私はまるで熱に浮かされたようにして毎晩授業が終わると片道30分バスに揺られて立法院に足を運んだのだった。私の人生(まだ26年そこそこですが)の中であんなに身体をフル稼働させた時期はなかった気がする。「いま、歴史が動いている」と本気で思っていたし、自分は幸運にもその渦中にいるとさえ。学生たちによる立法院の占拠行動が始まってすぐのころ、その出来事を自分はこんな風にとらえていた。私が立法院の前で目にしたのは、学生と市民が一致団結して自分たちの生活を守ろうと声を挙げている姿だった。この運動が結果として、台湾の人たちに台湾経済の中国への依存度を再認識させ、各々の台湾人としてのナショナルアイデンティティや、「中国ではなく台湾」という国家アイデンティティをより鮮明にさせることになったのだとしても、運動の目的は決してそこにあるのではなかった。学生の友人から聞いた話では、あの時台湾独立を訴える団体も運動に参加していたが、学生側は抗議の主張が台湾独立という問題にすり替わってしまうことを懸念して、そういう団体らには立法院から少し離れた場所で活動するようにお願いしていたらしい。

運動では、一つに、「黒箱(ブラックボックス)」の中で強行採決されたという事実の深刻さを鑑み、これを民主主義の政治体制を脅かすものであるとして抗議活動が行われた。二つには、台湾の中小企業に不利で且つ市民の暮らしを脅かすものとされる中国とのサービス貿易協定に対する反対主張が訴えられた。と、大雑把に言ってはみたものの、私があちこち話を聞きまわったりしているうちに気付いたこととして、あそこに集まっている人たちの中にはたとえば「“黒箱”には反対だけど“服貿”に反対ってわけではない」というような微妙な考えを持っている人もいた。あるいは、サービス貿易協定の是非はひとまず置いておいて、「黒箱」に抗議する=民主主義を守る(捍衛民主)ことを第一の主張とすべきであり、そうしてこそ様々な団体が本来様々な主義主張を携えて活動する中でそれらの目指すところの共通項を据えて一致団結できるのだ、と考える人もいた。実際に、立法院の周りはそういう構造になってたんじゃないかなと思う。部分集合とか集合とかの、丸がいくつかあってそれがところどころ重なっているみたいな図があるじゃないですか、ああいう感じで、蓋を開ければみんな細かな意見の対立はあるんだけども、一番大きな理想は一つで、それが民主主義を守ることだった、という。私はこんな風に感じながらあの運動に参加していたし、だからこそ共感するようなところもあり、彼らとともに熱狂したのかなと思う。

民進党が当時、立法院の周りで配っていたパンフレットの中には、確か服貿には反対だがTPPには積極的に参加していくべきだというような内容が書かれていた。一部の友人はそれを「私たちが服貿に反対していることの根元にある理由を(民進党側は)理解していない」とか「服貿はだめでTPPはOKだなんて馬鹿じゃないの?」というように批判していた。彼らが見据えている“仮想敵”は単に日ごろから彼らを悩まし続ける中国という隣人だけではなくて、中国もひっくるめて、その強権的姿勢で国内の市場を食い荒らそうとしてくる国外の大企業や資本、新自由主義の信奉者たちだった。話は多少逸れるが、こういう学生たちと日本のSEALDsに参加している学生なんかが交流すればおもしろいんでないの、とずっと思っていたので、4月に林飛帆さんと奥田さんがフィリピンであった青年交流イベントで対面することになったと知ったときには彼ら二人の互いへの反応というか、どんな話をしたのだろうかってちょっと気になった。林さんのFBの投稿にはコメントがたくさん。中には安保反対を訴えているSEALDsを批判するものも。こういう人たちは、日本の安保法制が、台湾にとって政治的な脅威である中国を牽制するための有利な策として働くと考えている。つまり日本が安保法制を備えることで、台湾も漁夫の利を得られるのであると。私にはそうは思えないけど。なんというか、中国という存在を共通の仮想敵として仲良くしましょうと考えている人たちが過剰にナショナリズムを煽って、互いにもっと協力して取り組んでいかなければならないはずの問題にともに取り組めなくなるのは、残念だなあと思う。

たまにふと、このまま中国の経済成長が続き、台湾の企業を味方につけ、経済的なパワーで台湾を囲い込んで一国二制度の名のもと統一にこぎつけたとすれば台湾や台湾の友人たちはどうなってしまうのだろうかと考えることがある。仮に台湾の人の生活や文化が保障されたとしても、もっと精神的な面での大事なもの、言ってみるなら「尊厳」というようなものが失われることに違いはないんだろうと思う。できればそうはなってほしくないけど、でもだからと言って、なにもかも中国との関係にNOを突きつけるのは違うよな、とも思う。私なんかがちょこちょこ考えるよりも、台湾の友人たちはよっぽど頭を抱え込み、日々思いめぐらせているのであろうけれども。


【追記】
SEALDsと香港、台湾の学生たちとの対談本が出てた。
『日本×香港×台湾 若者はあきらめない』(2016年6月発売)
書店で軽く立ち読みしたが、香港の学生との対談の方が分量が多く、台湾は陳為廷さんしか登場せず。私が気になっていることが書かれてあると思ったけど、他の本を買って金がなかったので購入には至らず。

Sunday 5 June 2016

台湾映画『若葉のころ』を観てきた―すべての青春に捧げられた映画

人はいつの間にか子どもから大人になるらしい。気付けば映画の鑑賞券に1800円払うようになっていた。私は今年で27になる。見た目にはよく大学生と間違われるが、一般的には大人とカテゴライズされてもおかしくない年齢である。おおよそ10年前、私は17歳であった。誰もが経験するであろう17歳は、誰かにとっては特別で、誰かにとっては何でもない一年に過ぎないかもしれない。自分にとってそれがどんなだったか、もうしばらく思い出すこともなかったので忘れた気になっていたが、今日、シネマート新宿で映画を見終わる頃には、自分にとっての“あの頃”の記憶を手繰り寄せずにはいられなかった。

映画『若葉のころ』は、17歳の少女バイと、17歳だった頃のバイの母・レイの初恋を描いた物語だ。ノスタルジーへと誘う甘美なピアノの音色。白い足をさらけ出して駆け回る少女たち。そして彼女たちをとり囲うように青々と茂る木々。スクリーンからは始終、瑞々しくてまぶしい青春の形象(イメージ)が放たれている。ビージーズの「若葉のころ」がテーマ曲で、その歌詞とメロディが映画の中で巧みに挿入される。監督は周格泰という、これまでアーティストのMV制作を数多く手がけてきた人物。酸いも甘いも経験して“大人になってしまった”二人(レイと初恋の相手・クーミン)と、手を触れることさえためらった17歳の頃の二人の手紙を読み上げる声が重なり、瞬く間に時間が巻き戻されてゆくクライマックス。そこからエンドロールにかけての音と光、スローモーション等々を駆使した映像がとりわけ美しく、そこだけでも十分作品になりそうだった。

交通事故に遭い意識が醒めない母にバイは語りかける。「誰かを好きになるって、こういうことなのかな?」バイは同じ学校の男子生徒に好意を抱いていた。だが彼女の友人もまた同じ人を好きになってしまったために、バイは胸の張り裂けるような悲しみの底に突き落とされる。多感な時期に直面する性的なものへの嫌悪感と、両親のセックスによって生まれた自分という存在の間での葛藤。17歳の純真さゆえに苦悩するバイを演じているのは現在27歳の女優・程予希である。若いころのレイと一人二役で演じているのだが、この映画の見どころは彼女の軽やかで魅力的な表情でもある。映画を観ている私まで彼女に恋をしてしまいそうである。

つい先日、現在台湾で放送中のオムニバスドラマ≪滾石愛情故事≫(ロックレコードと恋人たち)の第九話≪挪威的森林≫(ノルウェーの森)を観ていて、そこに登場したのが同じく双子の姉妹を一人二役で演じる程予希だった。親の借金を返すために援助交際をさせられている非行少女(姉)と、音楽の才能がありながらも自閉症を抱えて学校に通えず、姉と同様に体を売ることを強要されている少女(妹)。補導員として働く青年に出会い、徐々に心を開いていく妹の繊細な表情にも、むごい現実から逃れられないまま、おざなりの正義感で更生させようとしてくる青年と泣きながらぶつかり合う姉の姿にも、ぐっと惹きつけられるものがあった。次の出演作もぜひチェックしたい。

話は映画に戻る。バスケットボールのコートで一人通り雨に打たれながらシュートを打つ若き日のクーミン。そしてあの頃の記憶に触れ、思わずそのコートで大の字になるおじさんクーミン。体中に激しい雨が打ち付ける。このシーンでクーミンの体を濡らす雨粒をはじめ、友人ウェンと意中の人シェンシーとの屋上でのやり取りを見てしまったあとのバイが自分で自分にぶっかけるホースの水、17歳の少女たちがはしゃぐ雨上がりの水たまり等々、ここでは水というものがイノセントな存在に還るための媒介のような意味を持っている。バイとレイは母子で俳優も同じだから対比して見がちだが、後に退学の原因となる事件の現場に居合わせてしまったクーミンと、屋上の出来事を見てしまったバイとが経験した衝撃には似通った部分があるように思う。どちらも男女の性に関わることであるし、なんだか、そのへんのごちゃごちゃを経験することがイノセントなものとそうでないものを分かつのだと言わんばかりに描かれている気がする。(まあその通りといえばそうか)

事件のあと、クーミンはレイの家にやってきて路地で涙ながらにレイを抱きしめようとする。レイは驚いて後ずさりするが、ただならぬ様子を察してゆっくりとクーミンに近づき、抱きしめ合う。二人の影はクーリンチェの少年と少女を思い出させる。監督は日本語版パンフレットのインタビューの中でも、一番影響を受けた監督として侯孝賢と楊德昌を挙げている。少なくともこの映画は悲劇ではなく、甘くて切ない記憶の物語だが、この辺は意識して撮られているのかもしれない。(あと監督は≪戀戀風塵≫が好きだそうだ)

レイとクーミンが通う学校の屋上で、少年がラッパで羅大佑の<童年>という曲を吹いているシーンがある。続けておじさんクーミンとその悪友がバーで童年をでかい声でうたい、若い客がうるさいといって喧嘩になる。これも世代の差である。おじさんたちにとってノスタルジックな気分にさせてくれるその曲の良さは、ある世代より下の子たちにはおそらく通じない。とはいえ、最近の台湾映画やドラマでは、そういうある世代層にはどんぴしゃで懐かしくてたまらなくなるような懐古ものが受ける傾向にあるらしい。たとえば≪那些年,我們一起追的女孩≫(あの頃、君を追いかけた)、≪我的少女時代≫(私の少女時代)、≪我的自由年代≫(英題:In A Good Way)、≪1989一念間≫(英題:Back to 1989、勝手に邦題候補:1989年の君へ)などなど。どれも1980年~90年代を時代背景とする。どんなに懐かしくても過去に戻ることはできないのが常だが、1989一念間に至っては主人公の男の子が1989年にタイムスリップして産みの母の秘密を探り、時には未来を変えようとさえしてしまう。時をかける少女ならぬ時をかける青年である。そういうものを観ていて、劇中の挿入歌やファッション等々の時代背景という点ではどんぴしゃじゃない世代からも支持されることになるのは、“もう戻らぬあの頃”に対する後悔や感慨は世代を問わず共有しうるものだから。私だって、台湾で生まれ育ったわけじゃないし世代も違うけど、『若葉のころ』観ながらなんだかノスタルジックな気分になっちまいました。まだ20年そこそこの人生、されど恋の一つや二つあるもんなあ。ああ余計なこと書いてまう前に切り上げよ!とりあえずDVD出たら買うと思います。

公式サイトで予告が観れる。

そういえば、『若葉のころ』のウェン役で≪1989一念間≫の葉真真こと邵雨薇が出演していた。1989での失恋して涙するシーンが印象的で、なんてきれいに泣いてくれるんだと思ってたけど、若葉のころでも冒頭で早速泣いてるシーンがあった。おもしろいくらいきれいに涙が落ちます。

Friday 3 June 2016

万年文化部女子のわたしがボクシングを始めるとどうなるか

足首をやりました。
厳密にはボクシングというより、体力付けるために始めたジョギングでやってしまいました。今は歩くのにくるぶしの辺りから足の裏にかけてが痛く、ちょろっと腫れている。太ももの付け根から膝にかけての筋にも違和感がある。急に慣れないことをするもんじゃないですね。
あと、いままでおしゃれなランニングシューズ履いてキラキラ走ってる系女子のこと小馬鹿にしてた節があるんだが、大反省ですね。ランニングシューズは必要ですね。おしゃれかどうかは別としてもちゃんとしたランニングシューズじゃないと足に負担がかかりますね。よく分かりました。
そして最悪なタイミングこんなことになるとは思わずボクシングジムに入会してしまいました…二か月月謝無料の甘い誘い文句にやられたのです…でも二か月は通えなくても損はしないぞ!ポジティブ!!
とりあえず整形外科に行くのがいいんでしょうか。慣れない土地で病院を探すのも一苦労だな。