Monday 21 November 2016

映画『湾生回家』はまだ観てないですがトークイベントに行ってきました。

先日、虎ノ門の台湾文化センターで映画『湾生回家』のトークイベントがあって、参加してきた。てっきり作品上映もされるもんだと思って前日の公開初日には映画館に行かなかったのだが、上映はなかったのでひどく後悔した。早とちりはよくない。

ジャーナリストの野島剛さんがコーディネーターを務め、映画の元となった書籍『灣生回家』を執筆するとともに多くの「湾生」たちを追いかけてきた田中実加さんと、映画にも登場する湾生のお二方が登壇し、貴重なお話を聞かせてくださった。

実は「湾生」という言葉を知る前から、私は台湾で生まれ育った日本人の歴史に関心を持っていたのだが、それには私の生まれ故郷である紀伊田辺と、いまお付き合いをしている恋人の存在が関係している。紀伊田辺の市街地からは少し離れた海岸寄りの田辺湾を臨む一帯に文里という名の地区があるが、そこには文里港と呼ばれる港がある。幼い頃の記憶では、船着場というよりも、おいやんら(田辺弁で「おじさんたち」の意)が釣りを楽しむ波止場という印象が強かったが、ここは古くから海の玄関口として利用されてきた場所でもあった。さらに文里港は、第二次世界大戦後に戦前の日本の植民地や、戦地からの引き揚げ者たちを乗せた船を迎え入れた港でもある。つまり、植民地であった台湾からの引き揚げ者の多くがこの文里港に辿り着き、ふるさとの土地として最初に足を踏み入れたのが紀伊田辺であったのだ。

この歴史を知ったのはつい二、三年前のことだ。私の恋人は広島出身で、地元には両親と祖父母がご健在だが、母方のおばあさんが実は台湾からの引き揚げ者だった。彼女もまた、田辺の文里港に降り立った引き揚げ者の一人だったのである。不思議な縁に心を震わせながらも、私は彼女の背後にいる数百万人の引き揚げ者たちの姿に想いを馳せた。彼ら、彼女らの目に映る田辺はどのようであったのだろう。どのような気持ちで、あの場所に降り立ったのだろう。そして田辺の人たちはどのように引き揚げ者たちを迎え入れたのだろう。仕事の忙しさを言い訳に深く調査することもなくうやむやにしていたのだが、今回トークイベントで湾生のお二人の話を聞くうちに、当時の田辺のことや、恋人のおばあさんのこと、あるいは家族史のようなものについて、ますます知りたいと思うようになった。

おばあさんは現在寝たきりで会話も難しいらしく、孫の恋人とはいえ見ず知らずの若造が病室までお邪魔するのは気がひける。とはいえ、歴史の生き証人から話を聞く機会は、今を逃せばもう二度とないかもしれない。ご両親に丁重にお願いしてみるのもありかもしれない。以前、恋人のお母さんづてで聞いた話では、おばあさんは生まれは日本で、幼少期に両親とともに台湾に渡ったそうだ。おばあさんの父親にあたる人が台湾鉄道の職員で、台中駅と周辺の駅に務めて何度か引っ越しをしたが、終戦時に住んでいたのは台中の緑川付近で、おばあさんは当時の台中第一高等女学校に在籍していた。妹さんは台湾生まれのまさに「湾生」である。妹さんが生まれた時、住んでいた場所の近くに「香山」という名の山があり、それにちなんで香さんと名付けられたそうだ。台中に住んでいた頃の家は立派だったそうで、玄関の門には大きなパパイヤの木が両側に一本ずつそびえていたとのこと。今回、トークイベントで話を聞いたお二人は台北や花蓮に住んでいたため、おばあさんのお話から想像するものとはまた違った植民地台湾での日本人の当時の暮らしぶりが浮かび上がるようで、非常に興味深かった。花蓮は開拓移民が多く、お金も住むところも何もない状態で、荒れ果てた土地をゼロから耕し、先住民との衝突も自分たちの力だけで解決しなければならなかった。様々な苦労を乗り越えて築き上げた暮らし、財産、人間関係をすべて手放して引き揚げなければならなかった、その悲しみは生半可なものではなかっただろうと想像する。

「湾生」の物語は、大きな歴史からはこぼれ落ち、世間から忘れ去られがちな小さな歴史の代表例だ。植民地主義の善悪に関する批判を超えて、語り継がねばならない歴史。また、今回のトークイベント内容のキーワードでもあった「ふるさと」という概念、湾生にとっての「ふるさと」はどこか?という問いについて、参加者たちの関心が高かったように思う。アイデンティティと結びつく問いだ。登壇していたお二人はこれまでの人生で何度も悩まれてきたことだろう。そんなデリケートでプライベートな問いをあのような公の場でたずねるというのは気がひけるものだが、お二人は堂々と話してくださった。話題性はあるかもしれないが、こういう質問が出るとなんだかナンセンスだなと思う自分もいる。一体、質問者はどんな答えを期待しているのだろうか。「それでもやっぱり私は日本人です」とか「台湾こそ故郷であり、心は台湾人です」とか?私は、小さな歴史、個人の歴史を語り継ぐことは大切だと思っているし、人の心に訴えかけるものがなければ語り継ぐことは難しいとも思う。だからこそ、こんな風にしてドキュメンタリー映画が制作されて、日本でも上映され、多くの人がそれを見て感動して台湾と日本の歴史や大きな歴史に翻弄されて生きてきた人々の存在に目を向ける、という流れができればそれはそれで素晴らしいことだとも思う。がしかし、そのルートのどこかに恣意的なエンタテイメント性があって、私は罪悪感のようなものを拭えずにいる。うまく言えないのだが、私たちはただただ物語だけを消費して感動や涙にして満足しているような。この話だけに言えることではないのだけど、ふとこんなことを考えた。
いずれにせよ、次に地元に帰るときにはゆっくりと資料館などを巡りたいと思う。