Sunday 9 May 2021

ヴィーガンについて考えたこと

急にヴィーガンに興味が湧いて、動物性の肉を食べることをやめてみようと思い立ち、手探りながら実践してみた。結果、長期的には続けることはできなかったのだが、食や人間について考えるよいきっかけにはなった。(注:ヴィーガンというと食だけではなく、毛皮や革製品などの動物を殺すことで得られる素材の生産、使用を反対するものではあるが、今回書く内容は主に食に関してである)

まずなぜヴィーガンを実践してみようと思ったか。きっかけはアニマルウェルフェアを訴えるサイトやSNSで公開されている、牛や豚や鶏の残酷な飼育、と殺を撮影した動画を見たことが大きい。映像だけでなく文章でも、アニマルライツを訴える人の考えを読んで共感したことがあった。そして一昨年から犬を飼い始めて、人間以外の生き物が身近になったことも、遠景にある。

そもそもヴィーガンの考え方の背景にあるのは、単に動物を食べるという行為がかわいそうだという感情的な理由だけではない。酪農による環境負荷や、海産物の乱獲によって生態系が壊されるといった環境問題も、動物性肉食を否定する理由のひとつである。私自身が興味を持ったのはどちらかというと感情的な理由からだが、加えて野菜中心の食事をすることで得られる健康面でのメリットも実践を後押しした。

まとめると、①動物の尊厳を守る、②環境負荷を軽減する、③人間自身の健康という3つの長所がヴィーガンの実践にはあると言われているわけだが、実際にやってみて、「果たして本当にそうといえるか?」という疑問がわくとともに、「動物の尊厳を守る」という考えに隠された人間の欺瞞や偽善について考えさせられた。

途中でヴィーガン食の徹底を諦めた一番の理由は単純で、ヴィーガンでも食べられる食材を調達し、植物性の食材だけで栄養が偏らない健康的な食事を続けていくために必要となる金銭的、時間的なコストが大きいと感じ、続けてはいけないと判断したからだ。実際、ヴィーガンを長年続けていた人が栄養に関する知識不足のためにかえって不健康になってしまい、動物性の食材を摂り始めて身体の不調がぱたりと治ったという例がある。始めたての私としては少しずつヴィーガンに移行し、栄養に関する知識を深めていくという方法がもちろんあったが、いかんせんそこまで労力をかけるほどヴィーガンを実践することに対する熱意や、ヴィーガンの考え方への深い共感がなかった。それに、情報を集め実践していく過程でヴィーガンに対する疑問や違和感はむしろ増えていった。

ヴィーガンに対して当たり前のように投げかけられるのが「植物は食べてもかわいそうじゃないというのか?」という反論である。これに関しては安直な反論で幼稚だと思いもするが、確かに当然湧いてくる疑問ではある。これに対し、ヴィーガンを主張する人たちの中では、植物には痛覚や感情がないから食べてもよい、という判断が主流らしい。だが、植物を消費することで動物や環境に悪影響を与えていることに関しては思い至らないヴィーガンもいるようだ。野菜や豆を生産する過程で人間が自然の生態系を破壊し、虫を殺し、小動物の住処を奪っていることは事実である。結局は植物を食べるにせよ動物を食べるにせよ、人間は他の生き物の犠牲なしには生きていくことができない。動物性の肉を食べず、植物性の食材も極力環境に配慮した方法で栽培された、虫食いのある、無農薬のものを食べる。それを徹底できる人はよいが、全員が全員そんな余裕や熱意があるとはいえないだろう。ヴィーガンの中にもグラデーションがあるように、ある問題(倫理的、社会的、環境、健康など)を解決する手段としての食の選択において、「どこで線引きをするか」が重要になってくる。

ここで食に関するタブーを設定している宗教のことを思いだす。植物と動物の間に線引きをしているヴィーガンも、その点では宗教におけるタブーの考え方と似ている。ある特定のタブーを避けるというルールを守っていれば、罪からはまぬかれるという意識が、実はヴィーガンの根本にはあるのではないか。つまり、ヴィーガンという思想や行為は、宗教が死んだ現代における一種の免罪符なのではないかと思うのだ。人間が生まれながらにして背負っている、他の生き物を犠牲にすることの罪から逃れる方法として、ヴィーガンは機能していると思うのだ(もちろん、罪から逃れられるというのは幻想にすぎないのだが)。

ところで、そもそもヴィーガンを推進する人たちは、どうするにしても人間の存在自体が他の動物にとって脅威であり、暴力的な存在であり、その事実が生きる限りつきまとうことを、どれだけ自覚しているのだろうか?まさにそれを自覚した上で上述のように線引きし、ヴィーガンを免罪符としているのだろうか?彼らの中には「あらゆる暴力にたいしてNOを訴えるのがヴィーガン」と考える人もいる。だが本当に人間はすべての暴力に対してNOと言い、それを完璧に実践できるだろうか?私はそうは思わない。免罪符としてヴィーガンを実践するならまだしも、人間の消し去ることのできない暴力性について無自覚なままヴィーガンを訴え、暴力性はゼロにできると信じて疑わないようならば、それは愚かな欺瞞・偽善にすぎないと思うのである。

こうやって考えてきてみて、私は過激なヴィーガンの人々には賛同しかねるが、免罪符として機能するヴィーガンの思想についてはアリだと思う。何事も原理主義は危うい。人間以外の生き物への暴力にNOを唱えるヴィーガンも、突き詰めれば人間自身の命を絶つ方向へと向かわざるを得ないと思う。人間として自身の暴力性に自覚的であり、そのことと日々向き合いながらも、健康的に生きるために(結局は人間本位なのである)他の命をいただいていく。今の私にはこの姿勢が一番しっくりきそうだ。