Thursday 20 November 2014

過去の自分はもう他人だったという話

ふと研究室の本棚を見上げていたら、昔パソコンが壊れる前にデータを出そうと、何を思ったか、十代のころに書き溜めていたポエムを印刷したことがあって、それをこの本棚のどこかに置いている(葬っている)事を思い出した。探してみたら案外すぐ手元にあって、まだ色褪せてないA4サイズの茶封筒の中からごっつ恥ずかしい「過去」がお目見えした。ひさかたぶりに読んでみたら案の定穴があったら入りたい気持ちになったけど、これは良い笑いのネタになる気がする。弔いの気持ちでここに晒そう。


----その1----

語りかける愛は嘘
いつだったか
目を見なくなった
そよ風が吹いた
もう帰らない木漏れ日の春

自由がいいのはお互い様
恋なんてなにが本物で
なにが必需品か分からない
足りないものだらけでここまでやってきたのに

-------------
(一行目で出オチ感ある。
 っていうかそんな自由がどうのこうの言うような恋愛してたっけか?)


----その2----

突き放されることも
突き放してしまうことも
もう慣れっこになった
気持ちを見ようと何度も何度も
晴れない霧をかきむしるように
僕を繫いでいるように見えた糸はあまりにももろくて
作り上げた理想だけがすべてだった
悲しいよ
何を聴いても思い出すのは君のことなのに
今ではどんな言葉も感情を表さない
僕の心に添わない
問いかけたい君がいない
問いかける力も僕にはない
救われたい一心で答えを探すんだ
ない場所探して疲れて眠る
逃げて
ぜんぶ決して
記憶も
孤独も
あったかいものが欲しかっただけ
手に入らないものを望んだ
春は君をさらっていった

-------------
(まさかの一人称「僕」
 この流れからして春先に失恋したんやろうな。)


----その3----

音もなく消えてしまいたい
あなたに見られることもなく
誰にも気付かれず
ふとした拍子思い出された像に
少しだけ感傷に浸られたい
もう二度と触れられぬものと
悔いとともに慈しみを込めて
名前を呼ばれたい

影もなく溶けてしまいたい
大地に重なり雪に混ざり
星にも照らされず
あなたが忘れた分の思い出を
ガラスの床に閉じ込めて見ていたい
同じようにどうしようもなく
行き場を失っている愛情を
わたしが溶かしてしまいたい

-------------
(注文の多いポエムですね。)


----その4----

想いを綴って
繰り返して
時間は流れて
僕は残される

きれいだと思わないか
ただひとり立ち尽くす僕
無限が垣間見えて
永遠を感じる

恋だ
誰かを想うことだ
僕が見ているのは君だ

-------------
(やっぱりなぜか「僕」。もうそろそろキツイ)


25歳になった自分からはまるで他人の書いたものを読むようでした。こんなもん書いていじけてたからヤンキーにいじめられたりしたのかな、はい、そろそろ自虐ネタも終わりにしよう。誰しもきっとこんな時期があったはずやで胸張って生きていこう!

Thursday 6 November 2014

日記を書く場所を見つけた

昨日の朝、なんとなくふらふらっと二週間ぶりくらいにポストを空けたら小包が届いていた。白い小ぶりな包みには日本語でも英語でも中国でもない言葉が書かれていて、よく読んだらイタリア語で、イタリアにいる友人が送ってくれたものだと分かった。分かった途端天気のいい朝に朗らかな陽気を浴びながらはらはらと涙を零しそうになった。思いがけぬことに対するうれし涙と、最近涙もろいせいで涙腺あたりにストックされていた涙とが混ざって溢れてきた。

誰かがわたしのことを覚えてくれているというのはとても嬉しい。研究室で小包を空けてみると、そこには蛍光色に近い明るい黄緑の、フェルト生地で覆われた手帳サイズのノートが入ってあった。表紙に書かれた「FIRENZE」という文字をのぞいては、どこにでも売ってそうなただのノート。でも友人が土産物屋であれこれ悩みながら選んでくれたのかなあと考えるとこれまた嬉しくて目から水分が飛んでいく。

こういう風に生きていけたらいいと思った。遠くにいる友人を時々思い出し、そして心を込めて小包を贈り、贈られ、肩の力をふっと抜かせ合いながら。

かくしてわたしは日記を書くことのできる場所を見つけた。思ったよりも早く見つかった。真っ白のページに、万年筆の先を滑らせてゆくと、さらさらとした書き心地に気分がよくなる。とはいえこうやってパソコンに向かっていると画面に文字を浮かべさせたくなるのだよネ。

Sunday 26 October 2014

日記を書く場所を探している

一年半くらい使ってたブログサービスが今年いっぱいで終わってしまう。日記的な感じで気軽に残せて月ごと見返せて非公開にもできるから個人的にはすごく使いやすかったから残念。これから日記とかメモとかどうしよう、ノート買ってアナログに戻るか。なぜノート派じゃなくなったかというと、文房具屋さんとか雑貨屋さんとか行ってかわいいノートがありすぎて一つのノートを選べなかったから、なんだけど幾つか買ってストックしておけばよかったのかな。でもノートは書き始めるときにこそ買いたいよね。ためておくとそのうちデザインが気に入らなくなったりして使わずそのまま放置もありうるよね。昔中国に行ったとき、さびれたスーパーの文具売り場で変なイラストが表紙になってるノートとか、昔の小学生が使ってた練習帳みたいなんをモジったデザインのノートとか探して集めるのにハマったことがある。あのとき買ったノートは結局使わないうちに引っ越しやらなんやらしてどっかに行ってしまったし、かろうじて残ってるちっさいメモ帳ももう自分では使わんからフリマで売ろうかなと考えたりしているところ。なんでも買いためればいいというわけではなさそう。味噌とか。

だから新しい日記帳を買うかどうか、一つを選ぶことができるか分からないけどやってみて、落ち着くまではbloggerとかで代替しよう。ワードでいいじゃんってのはまた違う、日付ごとに整理したりするの、それこそ面倒だし、自分の打った文字がネットの画面上に綺麗に並んでいるのを見るのが快感だったりするので、よいサービスがあればいいけど、なければ適当にこことかに残しておけばいいか。

Monday 13 October 2014

誕生日にパン

最近25歳になった。なったらしいが実感はない。人から25歳おめでとうなんていわれると、ん?え?わたし?ってなる。でも25歳になったらしいので次から履歴書には25歳と書かなければならない。25歳になったばかりの私はパンを焼いていた。夜中家に友人が遊びに来ていて、彼らをほったらかしてパンを捏ねていた。捏ねていたというかボールに叩きつけていた。パン作りを始めたころ、ネットやらレシピ本やらで書かれている捏ね方を参考にして捏ねていたが、捏ねども捏ねども生地はまとまらず、グルテン膜のできたハリのある滑らかな生地からは程度遠く、表面がぼこぼこしててぶちぶち切れる情けない生地にしかならなかった。生地づくり5回目くらいのとき、今日もどうせだめなんだろうな、おいしいパン焼けないな、粉もったいない、悔しい悔しいと思って、なかなかまとまらないべちべちゃした生地に嫌気がさし、投げやりになって思いっきりボールに叩きつけてたら、不思議とだんだん良い感じの生地になり始めた。それ以来、私のパン作りの捏ねスタイルは基本、たたきつけることが中心になっている。ほぼ捏ねてない。あとになって、そういうやり方もあるもんなんだと知った。


覚えておきたくなった、能登でパンを焼いている古川一郎さんの言葉

記憶に残るパン
国によって、文化や風習が異なるように、パンもその国によってちがいます。
僕が思うに、主食がお米である僕達日本人と欧米の人とでは、体が求める水分量が違うように思います。ですからパン自体に求める水分量(しっとり感)はとても大切だと思います。
よく本場ヨーロッパの味!という感じの固いパンがありますが、本当においしいのでしょうか?
ひとくち食べた瞬間、「これはおいしいのかな?」っと考えてしまうパンは、本当においしいパンなのでしょうか?
僕は口に入れた瞬間『美味い!!」と体中にインプットされるような、そんなパンを目指しています。

Tuesday 16 September 2014

現状確認

一年前は台湾にいた。
台北はせわしない街だった。
私は中心街から離れた山寄りの大学にいた。
ルームメイトとのコミュニケーションがうまくいかないということ以外は、何不自由なく学生宿舎に住まわせてもらい、月6万の奨学金をいただいてそれはまあそこそこ余裕のある暮らしをさせていただいた。それなのに研究の方はなおざりで、ほぼまったくゼロにとてつもなく近くなにもしないまま一年が過ぎた。いまここ。

留学から帰ってきたのは7月1日なので、もうそれから二カ月は経つ。
修士論文の状況がやばいということは薄々感付いていたと言うか、感付くも何も、やばいのは分かってるけどとりあえず置いておいて就活でもするか、みたいな変な落ち着きがあった。そして就活を実際にやってみいて気付いたのは、これまで自分で始めたことを何一つ最後までやり遂げてこれなかったということ。どれもぼやっとしたままなんとなく終わらせたような気になってさよならしてきた。つまり何事も責任もってやってこなかったってこと。修論も、そんな風になるのかな、という感じがしていた。

このままじゃ私の人生はなにもかも中途半端だ、と思い、まずは修論にちゃんと向き合おうと決めたのが8月末。就活のために出ていた東京から戻り、研究室に閉じこもり、休日は息抜きのためにパンを焼く、それがここ最近の日常。そんなんで修論にはちゃんと向き合えてるのかって?休日も修論やれよ!って?うーん、向き合おうとすればするほど、自分がこれをやっていることそのものが無意味に思えてきて辛くなるんだ。なんでこんなにも興味の湧かない研究対象を選んでしまったのか、なぜもっと時間をかけて考えてテーマを決めなかったのか、いろんな後悔がどわっと湧いてきて、いてもたってもいられず研究室を飛び出してトイレに逃げ込むか、生協で甘いものを買って気を紛らすか、研究棟のバルコニーから外を眺めて、昔投身自殺した教授のことなど考えてみたりする。教授と言うのは本当にすごい、だって修士論文書きあげたどころじゃなく、博士論文って言う化け物みたいな論文を書き上げたのだから。それに、教授になるまでに何本と論文を書き続けている。雨の日も風の日も薄暗い研究室に足を運び、不健康そうな同僚たちに囲まれながら、面倒くさい学生のあれこれもこなし、自分の研究をする。教授って本当にすごい(二回目)って思った。私には無理、この時点でもうドロップアウト確定です。だめだめ、教授になるとかはどうでもいいけど、修論はドロップアウトしちゃだめ。だから辛いけど、うだうだ言わずにこの研究対象でなんとかかんとか書きあげようと考えている。考えている考えている考えている......





Monday 24 March 2014

行政院占拠に関する記録など

昨夜は本当に長い夜だった。台湾に来て半年経つが、こんなに長いと感じた夜はなかったかもしれない。昨日の夜見聞きしたものの大雑把な記録を残すなり。

日本のメディアではいくらなんでももう報じられていると思うが、昨夜は学生たちが台湾の行政院(内閣)建物を占拠、情報を聞きつけた市民が集まってきて支援、一時は物資も運び込まれ立法院(国会)に続いて抗議拠点になるかとも思えた。学生たちが突入を始めてからしばらく、緊迫感と混乱が尋常ではなく、正門に人が押し寄せる状態。おそらくは突入の際に負傷した人を救助するため、救急車がやってくるが、そこでは冷静に皆道を空けるというシーンも。

行政院を囲む主要な門は正面に二つ、後方に一つ、建物向かって右側に一つ。正面と後方は広い道路に面している。先に正門で、その後は後方で、増員された警官と両手を挙げて非暴力に訴えながら立ち向かう市民とが幾度となく押し合いになった。あとで知ったが、主にマイクを握っていたのは清華大学の魏揚という学生(実は台湾の著名なプロレタリア文学作家・楊逵のひ孫さん!)で、場の秩序を冷静に保とうと「坐下!(座って!)」等の掛け声を、また救急車や物資班の往来を円滑にする交通整備のため、ひっきりなしに皆に呼びかけていた。

しかし夜中を回るころには、建物上階に見えた学生の姿もすべて消え、紺の制服を着た警官の姿に変わっていた。それでも正門側の広場にいる市民の間ではまだ少し余裕さが漂う。あとで後方にいた友人(間一髪捕まらず)の話を聞く限り、正面側とは雰囲気も状況もかなり違っていたよう。余談だが行政院の向かって右側には会議室やVIPルームとして使われている建物があり、普段一般人が入ることのできない所で一時休息をとる市民の姿もうかがえた。

だが警察は着々と鎮圧に向けて動き始めていた。後方から退却してきた友人の知らせが届く。後方の門では衝突が始まり、警官が市民を殴打、連行しているとのこと。ただこの点については市民の方が先に殴りかかっていたという話もあって、衝突の現場は直接見ていないので何とも言えないが、結果として暴力行使に至ったことは確か。このころすでに行政院建物内部の学生はすべて捕まえられていた。民進党党首が駆けつけ演説を行うが、所詮この人たちは警察を、国民党を止められない。その場にいた市民からの、攻撃をやめるよう国民党にプレッシャーをかけてほしいとの訴えにも曖昧で中身のない応答しかしなかった。

いよいよ後方から正面の広場に向かって警官が、腕を固く組み合った市民の一人ずつを前列からひっぺがしていき(ひっぺがしていき?)、正門前の警官も二つの正門を封鎖しようと動き始める。正門前の道路も危ないという情報が入り、行政院から離れることになったが、その後の行方は予想できた。

行政院占拠に踏み切った学生の行動をきっかけに、今回の抗議活動は一層注目を浴びることになったけど、負傷者がかなり出て、警官に殴られた市民の血だらけの写真や動画が流れたことで、「こんな暴力的な抗議は望んでなかった」という声もある。中には「民主を守っているのは警察の方」という意見まで(50代で私と同い年くらいの娘さんがいる女性。ただの年代ギャップが意見の原因とは思えない。)、私のフェイスブックのタイムラインには流れてきた。これを見た時は正直、怒りを通り越して涙が出た(ああこれも余談)。現場の様子や雰囲気はすべて伝えることができない。だが丸腰の市民に棍棒や盾を持った警官が掴み掛ればどうなるかということくらい想像がつくだろう。そもそも、学生たちがどういう目的で、何のために、自らの危険を冒してまで今回の行動をとったのか、この人たちはちゃんと理解しているのか?

ちょっと感情的になってしまった。兎に角、台湾世論が必ずしも昨日の行政院占拠という行動に賛成を示しているわけではない。これは今後の抗議活動に吉と出るか凶と出るか微妙なところだが、授業ボイコットを決定した大学もあり、大学全体として学生を支持しようというところも出てきた。はっきり言ってこの先どうなるのかがまだ見えてこない。行政院で場の指揮をとっていた魏揚さんは現在拘留されている。彼の曽祖父である楊逵は日本植民地時代に台湾で生まれ、作家として活動しながら労働者運動、農民運動に参与していた人物。植民地時代には何度も捕まっていて、戦後の二二八事件の際にも逮捕され、戒厳令下では思想犯として緑島の刑務所に投獄された。まあこれは重要なことじゃないんだが、今朝方これを知った時にものすごく心が震えた。

24日現在で立法院長の王金平は、今回の争議の焦点は「サービス貿易協定」の審議手順であり、学生たちの関心もそこに向けられているということを受け止めた上で、与野党による協議を進めていくと示してはいる。だが今日午後に行われた協議では国民党側は欠席。長期戦のように見えるが、刻一刻と少しずつ状況が動きつつあるので、目が離せない。うかうか寝てられない。でも寝たい。

気になっているのは今回の立法院・行政院の占拠および抗議運動を中心となって進めている二つの団体について。立法院の中にいるのは「黑色島國青年陣線」という学生運動団体。今回の「サービス貿易協定」に反対するため結成された。新自由主義を反対、経済貿易のグローバリズムに対する危惧、環境汚染への問題意識があり、人権、民主、自由の発展を主張している。もう一つ、立法院の建物の外で場の整備を主導しているのが「公民1985行動聯盟」という民間組織。昨年7月に、退役間近の青年が死亡する事件が起こり、真相の追求と公開を求めてこの組織が結成された。その結果、青年は軍隊内で虐待を受けて死亡したことが判明した。どちらも「民主」や「正義」を訴えている点では共通している団体で、今回は協力体制を築いているよう。1985について、立法院周辺の秩序整備が厳格すぎてネットでは「警官以上に警官みたい」と風刺されていたり、抗議拠点周辺での移動や行動が制限されることに不満を持ったりする人もいる。これからさらに長期化するのであれば、こういう些細なことでごたごたして抗議活動の参加者たちの連帯が崩れるのはよくないよなあと、少し客観的に眺めている。

いずれにせよ、今回の台湾の学生運動がもつ意義を考えると、これは自分にとってもはや他人事ではない。私は台湾の歴史に触れることで、民主主義の重みを学んできた。台湾の民主主義をかけた闘いを、見過ごしてはいられない。それに日本だって同じようなことがすでに起こったんだから。その時私は台湾にいて、それは理由にできないかもしれないけど、何もすることができなかった。悔しかった。うん、ちょっと眠くて何書いてるか分からんくなってきたんでそろそろ終わりにします。

Friday 21 March 2014

立法院前、占拠二日目。

昨夜の立法院前、通りいっぱい人で埋め尽くされ「拒絕服貿,捍衛民主(サービス貿易協定を拒絶、民主を守り抜け)」、「退回服貿,重啟談判(協定を差し戻し、協議をやり直せ)」の掛け声が繰り返される。その言葉が簡潔に表しているように、ここにいる人びとは単に今回の協定に反対しているだけでなく、本来なすべき立法院での審議の過程を経ずに協定が通されてしまったことを、三権分立を揺るがし民主主義を軽視する国民党の横暴として、抗議をしている。一部台湾の新聞の社説が指摘するように、協定自体への反対主張(「反服貿」)と、正当な手順を怠った手段に対する抗議主張(「反黑箱」)とが混雑しているしているとはいえ、両者の問題意識の根幹は共通している。

ネットでは日本人ユーザーが「中国に台湾を乗っ取られる」などという言い方をしているが、この一件は台湾/中国の二項対立に単純化して処理できる問題ではない。これはあくまで表層的な争点でしかなく、相手が長年台湾の主権を脅かしてきた存在であるが故に分かりやすく浮上しているだけだ。自由化適用枠に指定されているサービス業の中には道路、建設、電力、通信、ダムなど、インフラの大部分が含まれている他、私の友人たちが特に憂慮しているのはテレビ、出版業など、自分たちの日々の生活に密接で且つ「言論の自由」に関わる分野の自由化についてだ。中国の出版社が売る本や雑誌は安価だが、北京政府の検閲を通して初めて出版される。つまり彼らにとって都合の悪い内容は削除、修正。そして言論統制の影響を受け、信頼性に欠けた書籍が台湾に流入する。小規模な台湾の出版社は打撃を受け、台湾にとっては次第に確かな知識・情報が得られない状況に陥る恐れがあるだろう。そもそも、企業進出の際に中国側が利用できる銀行は複数あるにも関わらず、台湾側はひとつの銀行だけに制限されているなど不公平な点がある上、中国の大企業と共に大量の労働者が入ってくれば、台湾でサービス業に従事する人口過半数の労働者が生活の危機に立たされる。自由化は資本の流動を盛んにするが、それで得をするのは台湾にせよ中国にせよ、一握りの大企業。ここ数年の経済政策ですでに台湾企業の中国進出は増えたが「給料は増えるどころか減ってきた」というのが働く人の実感。多くの人が指摘していることでここで再度言う必要もないかと思うけれども、この協定が改善しようとしているのは資本の流動であって働く人の生活や賃金ではない。メディアは「学生が立法院を占拠」としか取り上げないが、確かに立法院の周囲にも学生が大勢駆けつけているとはいえ、仕事を終えたサラリーマン、家族連れ、車いすのおじいちゃんおばあちゃんまで(『台湾人四百年史』、『民主主義』の著者、史明の姿も!)、色んな人が入れ替わり立ち代わり(もちろん、何時間も座り込んでいる人もいる)、自分の生活に関わる重大な事柄が、たった三十秒で決められてしまったことに抗議しようと集まっている。

台湾の今回の出来事が、私には他人事に思えない。馬英九のやり方は昨年12月の特定秘密保護法案の一件にもどこか似通っている。日本の企業もこれに乗じて益々中国進出。今夜から明日にかけてどうなるか…

Thursday 6 February 2014

台中滞在中のこと忘れんようにメモ

台中に来てからのこと、書き留めておきたいことがいろいろとあって、
でも覚えきれてなくて頭の中で整理もできてなくて困ってる。

友人Pさんにはとても感謝。
彼女のお陰で、旧正月をひとりさみしく台北の宿舎で過ごすようなことにならずに済んだ。
その上、おいしいものもたくさんごちそうになって、親切でおもしろくって明るい人たちと一緒に過ごすことができて、自分の気持ちも晴れ晴れしてきたような気がして、とにかく、とてもうれしい。

台中滞在二日目は旧正月の大みそかで、Pさんの実家にお邪魔して家庭料理をごちそうになった。
どれもおいしいものばかりだったけど、Pさんのお母さん手作りの干しタケノコを使った料理がとてもおいしかった。焼き魚も(中国語では「紅焼魚(ホンシャオユー)」)。あと蘿蔔糕だと思ってたけどちょっと違うくて、肉が入ってない台湾式の蘿蔔糕に似たやつもめちゃうまかったし(外の店で売ってるのはだいたい香港式らしい)、お母さん手作りのソースがまた美味。文章力なくておいしさを上手に表現できないから残念。思い出したらまたお腹空いてきたちょっと。お腹いっぱいのはずやのに。

そんでからよる23時前にPさんの実家を出発して近所の廟にお参りにいった。
旧正月の年越しは、23時が区切りらしい。
台湾には「土地公」と呼ばれる廟が各地域にあって、その土地を守ってくれる神様が祀られている。
私たちが着いた頃にはもう何人も人が居て、小さな廟だったけど、その土地の人たちにとっては見過ごすことのない大切な場所なんだなって思った。
あとからあとから近所の人たちがぞろぞろと集まってきて、みんな熱心にお参りをしていた。
私たちも、Pさんのお父さんが買ってくださったお線香で「拜拜(バイバイ=お参り)」をはじめた。
まず一番手前の線香立てるやつ(あれなんて言うんやろ)の前に立って神様に新年の挨拶を始める。
自分の名前と、出身地と、神様に「新年快樂(あけましておめでとう!)」と、日ごろのお礼を言って、今年一年も「平平安安(ピンピンアンアン=平穏に)」に暮らせるようにとお願いする。
そして9本もってる線香のうちの3本を挿して次へ。
続いて奥の神様が座ってるっぽいところの前でまた同じように黙々と心の中でお礼やら新年の祈願やらを唱えて3本の線香をお供えする。
最後はこの廟のそばにある大きな樹の前へ。
これもここにいてる神様の一つだそう。日本の「八百万の神」みたいだなっておもった、長寿の大木を祀る習慣は日本にもあるよね。
そこでも同じようにお参りする。
これで一通りの参拝は終わり、あとは、地元の人たちはそこで出会った近所の人たちとお喋りしたり、新年の挨拶したりしてて、みんなわりとゆっくりしてたけど、私とPさんはそのまま帰宅するためPさんのお家へ引き上げ。
Pさんのお父さんにお礼を言ってお別れしました。

そういえば台湾の人が家とか廟で祀ってるのはだいたい道教の神様だとざっくり思ってたんだけど、Pさんのお父さんがいろいろ説明してくれるのを聞いてたら、道教とはいえいくつか種類があるみたいで、私が家の中の神棚を指さして「道教ですか?」って聞いたら、「道教じゃない」って言ってなんか別の、それも「道」って漢字が入ってた気がするんだけど、道教ではない二文字の単語を紙に書いて見せてくれた。忘れた。

Pさんのバイクの後ろに載せてもらいながら、Pさんの家族と、家族にまつわる台湾の歴史のお話を聞かしてもらった。
Pさんたちは戦前から台湾に住んでる家系のいわゆる本省人一家で、Pさんのおじいさん、おばあさん、ひいおじいさん、ひいおばあさんたちは、日本による植民地支配の台湾に生きていた。
ひいおばあさんたちは、息子であるPさんのおじいさんに、日本語を勉強させることを嫌がっていたけれども、当時の状況としては勉強せざるを得ず、おじいさんは日本に行く機会があって、日本語を習得して台湾に帰ってきたとか。
おじいさんの年代だと生まれたときにはすでに台湾は日本の一部ってことにされてて、国語=日本語であって、日本人/台湾人、内地人/本島人という差別は存在していても、同じように日本語を学びながら育って青年期まで過ごした。
1930年、霧社事件(台湾原住民による日本政府への蜂起事件。原住民部落の小学校で日本人児童を中心とした運動会が開催され、その現場に原住民が襲撃、老若男女問わず殺害した。一方、蜂起した原住民討伐のために日本側は毒ガスを使用し、さらに原住民の部落間の対立を利用するなどし、徹底的な制圧を行った。)が起こった時、Pさんのひいおじいさんたち一家は南投の埔里に住んでいて、その土地や山の事にも詳しかった。
そのため、蜂起を起こした原住民と日本の討伐部隊の攻防戦の最中で、Pさんの一家は討伐部隊に山の道案内をすることになった。つまり、原住民を討伐する側の肩をもった、ということだ。
心なしか、Pさんも言いにくそうな申し訳なさそうな口調だったけど、Pさんはずっと、どうしてひいおじいさんたちが討伐部隊、つまり日本の権力者側に協力したのか、彼らのアイデンティティはどこに根差していたのか、どんなふうになってたのか、知りたかったのだと言う。
でもひいおじいさんは先に亡くなっているし、おじいさんに尋ねる機会もとうとうないまま急逝してしまった。
Pさんとしては、彼らにとっては「日本」が自分たちの「国家」で、純粋に自分たちの国のためである、と思って討伐部隊に協力したんじゃないか、と考えているそう。
でも、文化的な側面で言えば、アイデンティティはもっと複雑だっただろう、みたいなことも。
生れたときにはすでに台湾は日本の一部で、日本語を学び、本島に行ったことがあり、本島での暮らしというものに少なからず憧れを抱いていた人たちにとっては、少なくとも当時は、「日本」は自分たちの国家であり、日本に対する国家的アイデンティティを抱いていたのだとしても、おかしくはないだろう。ただし、そこには見え隠れする矛盾も、おそらく孕んでいる。
Pさん自身、日本に対して特別な憧れがあるのは、おじいさんの影響だろうと言っていた。おじいさんがPさんに話してくれた日本というのは、いつも快適で暮らしやすい、自然の豊かな国だったという。
植民地時代を生きた台湾人が、日本に対するこういうイメージを抱いたり、愛着のようなものがあるのは、Pさんのおじいさんに限ったことではない。
歴史が生み出した、奇妙な、台湾人と日本の関係性だなあと、思う。


そして三日目はPさんと一緒にPさんの親友宅へお邪魔した。
Pさんの親友Cさんは、CさんとCさんの旦那さんと、6歳か7歳になる息子くんの三人家族で、今日はCさんのお母さんにもお会いした。四人でマンションに住んでるのかな?
台湾に来てから何人か台湾人の家にお邪魔したけど、まあ当然なんだけどいろんなおうちがあって、暮らし方とか、収入とかの違いなんかなって思ったけど、今回はこれまたきれいなお宅だった。
一階は駐車場、二階はキッチンと居間、で三階がたぶん寝室なんだろうな。マンションだけどメゾネットっていうのかな、こういう一世帯ごとに二、三階あるやつ。
二日目にお邪魔したPさん宅や、私が宿泊させてもらっていた別の友人のお宅は、路地に並んだ住宅の一角で、一階の手前がリビング、奥にはキッチンがあり、玄関などはなし、正面おおきなガラス戸を開けばすぐ食卓があるようなあけっぴろげの構造だ。シャッターを占めたり網戸をつけたりしない限り、外から食卓の様子は丸見え。こういうの、台湾の一般的なおうちのイメージがある。

描き出したら結構長くなってしまってまとまりがつかない。
結局このあとみんなで有名な逢甲夜市に行って、おいしいものたらふく食べて帰ってきた上に、Cさんがお土産と称して屋台で買ったなにかよくわからないけどおいしいものをくれた。台湾美味しいもの在りすぎて食べまくってしまうし、こんなんだから最近身体の調子がよくないんだよなと反省しながらもやっぱり食べることはやめられない。台中にいる間はだいたい四六時中食べてたな。

またゆっくり来たい。帰国前に来れたらいいな。

Tuesday 7 January 2014

すきなたべものについて

台湾に来てからおいしいものにたくさん出会ってきたな。
牛肉麺とか、魯肉飯とか、小龍包みたいな肉肉している料理もうまいし
大豆系の素材を使った料理も大好き。豆干大好き。豆干を唐辛子入れて炒めたの大好き。
豆腐料理なら主菜・副菜よりデザートの豆花が好き。
初めて食べた時は「なにこれ砂糖水に豆腐ぶっこんだだけやんけ!」と思ってウゲーってなったけど
いつのまにか大好きになってたからすごい、台湾スイーツすごい。

好きな台湾の食べ物いろいろあるけどその中でも断トツ好きなんが、
師範大学の夜市で売ってる「冰火菠蘿油」(一個25元)という名の、バター入りのほっかほかのパンで、
一見してもはや台湾感ないし調べたら発祥は香港やった。台湾ちゃうやん。
「菠蘿麵包」っていう焼きたてで甘い、表面ごつごつしたパンに、冷たいバターを挟むから
その冷たさとほかほか感のギャップをとって「冰(氷)火」っていう名前がついているらしい。
バターの形が残ってるうちに舌で冷たさを感じながら食べるのもいいし、
もう溶けてしまってほかほかのパンにバターがたっぷりしみこんでいるのをもぐもぐするのもいい。
菓子パンは広義のスイーツやと思ってる。でも甘党なら朝ごはんにもいける。

そもそも「菠蘿麵包」ってなんやという疑問が残りつつもあんまり深く探ろうとせず
見た目メロンパンやからきっと菠蘿はメロンという意味なんだろう、と勝手に思っていた。
そしたら違った、パイナップルって意味やった。
言われてみればそのパンの表面のごつごつ感はメロンというよりもパイナップルに近そうだ。
いままで台湾でメロンパンやと思ってたものは全部パイナップルパンやったんやな。
台湾の人パイナップル好きやなー。でもこれ香港からきてるのか。
中華圏ではごつごつした果物といえばメロンよりパイナップルが一般的なのか。
ちょっとそのへんよくわからないけどおいしいからどうでもいいや。
バター入りパイナップルパンうまし。

最近初めて行った淡水という町は、一週間滞在してみてとても居心地がよかった。
静かだし、おしいいものいろいろ売ってる屋台あるし、ゆっくりできるカフェもある。
夕陽が落ちるのを河辺で眺めながらぼーっとするのもいい。
何もしなくていい時間を過ごす、休息をとる環境としてはぴったりだと思う。
その上、この冰火菠蘿パンを売っている店があるのでもう言うことなし。
師範大学の夜市よりも高くて一個40元だけど、この際気にせぬ。
晴れた日にはまた淡水に出かけようと思いました。ん、パンの話どっかいった。