Friday 13 January 2017

「引揚港」としての故郷の歴史に触れつつ

年末年始は相変わらず風のように過ぎ去った。大みそかの数日前からうちに泊まりに来ていた友人とちょっとした口喧嘩をして拗ねているうちに2017年と相成り、結局一年の振り返りや来年の抱負などといった話はせずじまい。そして世間とは逆行するかのように正月3日から実家に帰省し、6日まで居座る。

家族仲がいいわけではなく、実家の居心地もすこぶる悪いのであるが、今回はどうしても帰省しておきたい理由があった。戦後の引揚と故郷田辺の文里港に関する何かしらの資料を集めておきたかったのである。結論から言って、地元の図書館で調べられる以上のものは取り立てて何も得られなかった(当時のことを知る人を見つけて話を聞くなどまではできなかった)。しかし、市がまとめて出版していた元復員兵の回想記集や、引揚事業に関する資料が得られて、特に回想文の中には読み物としておもしろいものがあり、わざわざ飛行機に電車を乗り継いで帰った甲斐があった。

今でも地元の田辺市立図書館で購入できるのが、引揚50周年を記念してまとめられた『引揚港田辺』という書籍。すでに販売されてはいないが、図書館で複写できたのが40周年記念の際に編纂された『引揚港田辺(海外引揚四十周年記念)』。この中でも特に興味のあった台湾からの引揚者の回想文の部分と、そのほかに故郷の土地を目前にして引揚船内で起きた“リンチ”について詳細に描写していた奥村明氏の文章を複写申請した。あとで調べてみると、この奥村さんは『セレベス戦記』という自身の従軍記録を出版していた。どおりで、引揚記念書籍の中の回想記もこなれた文章で、まるで小説を読んでいるかのような心地がしたのだ。詳しい来歴は分からないが、戦前は物書きの筋の人であったりして?

回想記の多くが、上陸後の検疫でしらみ対策のDDTを「ぶっかけられた」ことや、田辺の地元民の温かい歓迎に涙を流したこと等々、どちらかというとほのぼのとしてしまうようなエピソードを徒然と書いてあるのに対して、奥村さんのは少し違っていた。同じように「祖国」を見ることのできた感慨のようなものや、帰ってこられなかった戦友たちを思う悔しみを語る一方で、敗戦してなお私欲に走る軍上層部や、兵士の任を解かれたはずの復員兵たちの間に影を落とす軍隊の悪質な構造を、冷静にまなざし、指摘しようとしている。以下、少し長いがリンチについての描写を引用。

「…しかし、平和で美しい紀伊半島を目前にした田辺港は、南方各地よりの復員船がひしめいており、下船は順番を待って、今日、明日は船中で過ごさなければならぬという。すぐ下船できると思っていた私たちはがっかりした。気ははやるばかりで、何ともしようがない。時間は錆びついたように長く、耐えがたく鬱血した気持であった。/そのあせりと無聊に、人心の亀裂が生じたのにちがいない。リンチ事件がおこったのは、その夜のことである。」

「テントのそとで、また、騒ぎが起こった。「岩田兵曹長! マカッサルへ上陸したときのこと、おぼえているか。よくも、おれたちをひどい目にあわしやがったな。貴様! この野郎」 罵声と殴打の音。……「ざまァみやがれ!」そんな捨てゼリフがきこえ、あとは静かになった。ふくろだたきにされた兵曹長が濡れた鉄板の上にのびている姿を想像し、(たぶん鬼兵曹長だったんだろう。相当恨まれていたらしいな)と、私は他人ごとのように考えていた。/遠くに近くに、ざわめきがきこえた。罵声、肉を打つ鈍いひびき、うめき声。――私は頭をもたげた。これはいけない。あちらでも、こちらでもリンチがはじまっている。中尉を皮切りに、リンチの連鎖反応をおこしたのか。私は関係ない。…」

筆者・奥村さんも少尉であったがために結局リンチの標的にされたのだが、この事件の原因は戦争中の軍隊における「私的制裁の悪習」とそれを暗黙裡に奨励する上層部や、下級者に強いられた上級者に対する絶対的服従精神の根拠である軍人勅諭にあると語る。

「戦争が終わり、命令系統の階級をなくしたかつての上官がドレイ的な境遇に耐えてきた下級兵士の報復をうけたのも、当然のことであろう。だが、一部扇動者の発作的なリンチ事件が、母国の山河を前に、燎原の火のごとくひろがる形勢は、なさけないことだ。それは爆発であり、狂気であり、無意味な破壊に通じるだけのものであった。わるいのは、権力におごって兵士たちをドレイあつかいした上官だけではない。国をあげての富国強兵の教育方法そのものに陥穽があった。前近代的な日本の体制そのもののありかたを、あらためて批判しなければならないであろう。私はすぎゆく暴風を待つかのように、じっと横たわっていた。両耳をふさいで、耐えていた。」

復員兵の身体に染み込んでいる暴力の記憶、それが、ふとしたことで爆発する。なんとなく、『仁義なき戦い』の冒頭で復員兵だった広能昌三らが広島のバラック立ち並ぶ闇市で殴り合うシーンが連想された。暴力の温床、戦前と戦後の連続性。

その後、一夜明けてリンチ騒ぎなどなかったかのように皆ケロッとした顔で肩を並べて上陸を喜んだそうだ。さらに、無事に復員はすんだが、上陸時に軍用物として運び出すよう命令されたものの中にセレベス(セレベスは植民時時代の呼び名で、現在のインドネシア・スラウェシ島。)から積み込んだコーヒー豆の詰められた袋があり、それがなんと闇市で売りさばかれ、船長が取り調べを受けることになったとか。これに関して奥村氏、「悪党の片棒をかつがされていた」と言って怒りをあらわにしている。

上述のリンチについては、同回想文集の中で竹本節三氏も書いている。竹本さんの回想では、上陸後も文里港付近の松林の陰で将校たちが被害を受けたようである。

「下級の兵たちは、将校にたいして、根の深い宿怨をもっていた。…ニューギニアで、生きるか死ぬかの戦時生活をしていたときのことに関わってくる。将校とくに上級将校たちが軍制上の権限を、無拘束な私権に転化させて、いかに下級兵を犠牲にして恬然としていたか、そんな事例が枚挙にいとまないほど多かったことを、私はよく知っている。…乗船中に、以前から心中に鬱屈していたこの問題が、メタンガスが爆発的な張力をつよめてくるように、急に膨張してきた。上陸し、解散してしまえば、この問題を解決すべき機会はまったくなくなってしまう。…略」
ネットでちらっと検索してもこの類の話は複数ヒットするので、復員船にめずらしいことではなかったのだろうが、これまで戦争関連の歴史書物、小説とか手記とかあまり読んでこなかったので、衝撃的な話だった。このほかにもまだ資料を読み込めていないので、時間を見つけてまとめようと思う。

複写申請するとき、普段はこんなド田舎の図書館で古い書籍の複写を何十枚も頼まれることはないのだろうが、一行、また一行、さらには二枚目の複写申請用紙へと必要なページ番号を書き入れていく私の様子を、司書の方が不思議そうに見ていることに気が付いた。複写を終えて私に印刷物を手渡してくれたのちも、その本にわざわざ東京から訪れて複写するほど価値のあることが書かれているのかと気になったのだろう、同僚と思しき司書さんと二人してページをめくりめくりひそひそと話をしていた。京都の舞鶴や佐世保などとくると引揚港として有名なのだろうが、田辺は意外と盲点であるようだ。地元の人ですら、その記憶をとどめている人も、歴史として知っている人も少ないように思う。

で、私はその貴重な?回想記集と当時の引揚援護局に関する資料を手に入れたのだが、手に入れてそれを読む以上のことができておらず、ここからなにか発展させることができるかどうかは不明だ。恋人の祖母は戦前台湾に移住しており、戦後の引揚時に帰り着いたのが田辺の文里港であったのだが、彼女の帰国に直接関わるような記録は見つけられなかった。昭和21年2月20日から6月24日までの約5カ月の間に輸送船63隻が入港したとのことで、そのうちどの船に恋人の祖母が乗っていたのかまでは残念ながら調べがつかない。昔の文里港付近には記念碑が建てられてあり、今回は見に行けなかったのが心残り。

引揚50周年の書籍が平成8年に出版されたのち、引揚60周年であるはずの平成18年(2006年)には何もなかったのだろうか。来年になれば引揚70周年だ。当時のことを語れる人はますますいなくなる。感傷的な気持ちになってしまうのは避けがたい。

今年もどんな一年になるものか、さっぱり見当がつかないが、好奇心を忘れず、気になることをおざなりにせず調べ、学びの多い一年にできればと思う次第です。なんでもメモを取る癖を。そして研究者気取りもたまには役に立つことがあるだろうし、コツコツといろんな資料を集めよう。