Wednesday 29 May 2019

台湾ドラマ『太陽を見つめた日々』(めっちゃネタバレあり)

 『太陽を見つめた日々』(原題:他們在畢業的前一天爆炸※直訳すると「彼らは卒業の前日に爆発した」)は2011年に台湾で放送された5話完結(予定だった)のドラマだ。主人公の陳浩遠(チェン・ハオユエン)は成績優秀で友人思いの所謂“善良な”少年。高校入学をきっかけに軽音部でギター&ボーカルを担当する王丁筑(ワン・ディンジュー※以下アディンと呼ぶ)と知り合い、いつしか二人は付き合いはじめる。ハオユエンはそんな風にしてつつがなく高校生活を送り、青春の色鮮やかな日々を過ごしていくかのように見えたが、入学式の当日に屋上で出会った議員の息子・洪成揖(ホン・チェンイー)が銀行強盗未遂をしたことを知り、ハオユエンの中にも何らかの不穏な影が落とされ、物語が幕を開ける。

 一見青春ドラマに思えるこの作品が実にどれだけ社会への批判性、反抗性を帯びているか、話数を追うごとにその強烈さは淡々と増していく。その淡々とした描写が、まだあどけなさの残る少年の横顔に潜む狂気や暴力性を際立たせる。ハオユエンが受けた辱めの仕返しにチェンイーが男たちにとびかかり、耳を食いちぎるときの異様な目。あれは17や18の子どもが持っていていい目ではない。己の存在の不確かさから逃れるためには肉体を行使して確かめるしかない。腕を振り上げ拳をぶつけ、血を味わう。けれどそうしたからといって救われるわけではなく、問題の根本にあるもの――父親の不在――を解決しない限り、いつでも暴発しうる時限爆弾を抱えることになる。

 ここに写される少年少女は、学校の教師や親からは子ども扱いされながら同時にもう子どもであることを許されない状況に置かれ苦しんでいる。ピアノ、ドラム、ギターなどいくつもの楽器が弾けて才能さえ見いだされるハオユエン。しかし父ひとり子ひとりの家庭で父は友人の借金を肩代わりさせられ、無職の上にさらに借金を重ねてゆく中、音楽をやりたいなどとは言い出せない。父の期待に応えて一流大学の法学部を目指すも、金銭的事情でそれすら危うくなる。追い打ちをかけるかのように、金融業者は容赦なく取り立てにやってきて父親は頭を下げることしかできない。ハオユエンは葛藤の中で、父の善良さを知っていながらついその心の弱さを攻め立ててしまう。

 またアディンの親友・林筱柔(リン・シャオロウ)はアディンと疎遠になってしまった孤独からネットに出会いを求め、そこで出会った男から麻薬を強要され、性的暴行を受けてしまう。秘密を知ってしまったハオユエンは彼女を助けようとするも、教師たちはそんな彼を鼻で笑い飛ばす。シャオロウは「汚れてしまった」という意識から、そして痛ましい経験から募らせてしまった男性へのあるいは対人関係すべてにおける不信感から、友人とも距離をとり、純粋に好意を抱いてくる先輩のことも拒絶する。一方で親身になってくれた数学教師に対して師弟以上の関係を求めてしまう。

 数学教師とハオユエンの間で交わされる会話が印象深い。シャオロウを身籠らせてしまった教師が責任を取って辞めるという。どうしてこんなことになったのか、これからどうすればいいのか、なにがただしいのか、先生にもわからない。そういったことを言う教師に対して、先生がそんなことを言うな、生徒である僕たちはどうしたらいいんだと、ハオユエンが声を荒げる。信頼していた大人が無力であることを知るとき、大人になることへの幻想は打ち砕かれ、同時に無垢な子どもでもいられない現実に存在は引き裂かれてしまう。

 実は、チェンイーの育ての親である議員は、自身の利益のために人を雇い(あるいは人に罪を着せ)殺人を犯すような悪徳政治家だった。そして議員がその街の金融会社を裏で操り資金源とし、警察官を自分の犬にして、借金の取り立てまでさせている。そう、ハオユエンの家に押し掛けたのはその犬だった。挙句、ハオユエンに大学進学のための援助を持ち掛ける。だがハオユエンには分かっていた。議員が自分を進学させ、法律家にした暁には、利用しようとしていること。チェンイーの実父を刑務所送りにしたのが議員であること。大人たちがいかに役立たずであるかということ。そして自分の置かれている今の状況が彼らの傲慢で怠惰で身勝手な行動よって生み出されてしまったということ。

 少年は拳銃を握りしめ、たった一人で敵に立ち向かう。彼は私ではなかったと、あなたではなかったと言えるだろうか。「よかった時の僕のことを覚えていてほしい」その一言を恋人に言い残し、少年は白昼の闇の中へと突き進んでゆく。

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 どの役者も秀逸な演技でみせてくれているのだが、やはり「狂気の目」を持ったチェンイーこと巫建和(ウー・ジエンホー)なしでは語れない。彼は映画『共犯』(2014年)にも出演していて、どこか孤独の影が差す落ち着いた少年の役柄を演じている。その落ち着きが逆に背筋の凍るような気持ち悪さを抱かせるところがあった。2011年の時点でこのドラマであの芝居しててからの共犯か…と思うと末恐ろしいとさえ思うのだが、去年は呉慷仁と共演して『憤怒的菩薩』(陳舜臣による同名小説が原作)に出演していたようでこれは要チェックだ。呉慷仁といえば、『太陽を見つめた日々』にも呉慷仁がちょい役で出演している。さらには黃建偉(議員の犬役)、許瑋甯も出演していて、まさに製作側の伏線かと思わせるほど2015年の台湾ドラマ『麻醉風暴』の主要キャストが勢ぞろいしていた。監督の鄭有傑は映画『太陽の子(太陽的孩子)』でもレカル・スミと共同でメガホンをとった、社会問題や社会運動への関心が強い人物だ。(以前書いた太陽の子の感想こちら

 2017年には《他們在畢業的前一天爆炸2》すなわち『太陽を見つめた日々2』が公開された。日本では1とともにネットフリックスで鑑賞可能。残されたアディンとチェンイーのその後が描かれ、ハオユエンを彷彿とさせるまっすぐな瞳の学生運動団体のリーダー何士戎(ホー・シーロン)が登場。シーロン役には新たなキャスト・宋柏緯(ソン・ボーウェイ)が。最近では『愛情白皮書(あすなろ白書)』(2019年)にも出演していて、自作の曲がドラマのテーマソングにも使われている多芸多才な役者だ。

 シーズン2では中国との間で取り交わされた不正な経済貿易協定をめぐって学生をはじめ市民が大規模なデモを行った2014年の「太陽花運動(ひまわり運動)」や、中国マーケットからの反感を受けて、台湾独立を連想させるような言動をとった芸能人が謝罪をさせられた事件など、1よりも一層、社会的なイシューに焦点を当てつつその渦中でもがく若者の姿を描く。

 こういう台湾の作品を見ていると、社会という大きな集団が抱える問題と、恋愛や就職といった個人的な悩みとが切り離せないものであることを改めて思い知らされる。たぶん、成長していくごとにそのことを忘れがちで、そもそも仕事が忙しすぎて悩むための時間も、世の中で起きてる問題にコミットする時間もないというのが私、私たちの常なる現状だと思う(これは言い訳に過ぎないかもしれないが)。けどどこかで、少なくとも私は、彼らのような青臭さを求めてもいる。そしてハオユエンやシーロンのように、向こう見ずな情熱を持っていたいとさえ思う。拳銃は私たちの手に託されている。

 鄭有傑監督は日本でも訳本が出版された『歩道橋の魔術師』(呉明益著/天野健太郎訳)のドラマを製作中らしい。こちらも非常に楽しみ。そういえば、『太陽を見つめた日々』といい、『太陽の子』といい(「太陽花運動」もそうだけど)、この監督は太陽に縁のある人なのかしらね。

Monday 27 May 2019

台湾で同性婚合法化に おめでとう

 先日、台湾で同性婚を合法化する法案が可決された。台湾の友人たち、改めておめでとう。このニュースに少しだけ関連して、最近あったこと、考えていたことをとりとめもなく書き残す。

 その日、台湾からの吉報に私は喜んでいた。幸せな気持ちになって、会話でも話題にしてみたんだけど、ある知人と話したときその人が「よかったね、おめでとう、ニュース見たよ」といい、直後に「同性愛者の人らで勝手にやってくれる分にはいいけど、こっちまで巻き込まないでほしい」と言った。一瞬なにを言ってるのか理解できず、というのも矛盾しているように感じたからで、二つのセンテンスを同じ人が言っているとは思えなかった。とりわけ「巻き込まないで」という言葉が一晩中胸につっかえていた。それは少なくとも私には暴力的に聞こえて、言葉の奥に悪意さえ感じとれてしまった。はっきり言って傷ついた。

 ちなみに、私には女性だという自覚があり、恋愛対象は男性で、異性愛者であり、男性と結婚しています。過去に女性に対して恋愛に似た特別な感情を抱いたことがないこともないですが、それを男性を好きになることと全く同じ感情だったとは言い切れません。だから“当事者”かと問い詰められるとそうだと言えない。ただ以前から、同性婚や同性愛というテーマにはとても関心があった。これは私が初めて読んだ台湾小説がレズビアンの視点で恋愛の苦悩を描いた『ある鰐の手記』(邱妙津著/垂水千恵訳)であったこと、それから同性愛者であることを自認する友人がいることと関係があるのだと思う。

 話を戻すと、知人と別れたあとももやもやが続いたので、「巻き込まないでほしい」ってどういうことなのか?と深く突っ込まなかったことを少し後悔した。夫にこの話をしてみたところ、それはデモとかの抗議活動のこと言ってるのではないかという意見だった。例えばプライドパレードのせいで道が混雑して困ったとか、シュプレヒコールがうるさいとか。仮にそうだとして、つまり噛み砕くと「同性愛者が愛し合ったり、結婚できるようになるのはいいこと、だけど権利を主張する方法をもう少し工夫して、他の人に迷惑かけないようにしてくれると嬉しい」みたいなことだったのだろうか。だとしてもそこから「巻き込まないで」という言葉に至るとは思えず、そもそも誰にも全く迷惑をかけずに何かをやれってめちゃくちゃ難しいことなのに軽く言うよな、つーかデモとか抗議とかむしろ周囲を巻き込んでなんぼのもんでは、と感じる節もあり…今でもやっぱりどこか引っかかっています。

 たぶん数年前なら、学生のころなら、私はその場で突っ込んで聞いていたと思う。そうしなくなった理由には、意見がぶつかるのが面倒だし、考えは人それぞれ、最終的には分かり合えないこともあるというネガティブな諦めの他に、「余計なお世話だよ」「言われなくても勝手にやるよ」と心の中で中指を立てて済まそうとするポジティブな潔さみたいなのがある。ただし、そうやって済ませるには、私自身や話に関わる人たちの権利が保障され、差別されず、心身ともに安全でいられることなどが前提にないと難しい。今回の場合は、法律上で同性婚が認められた台湾で考えれば中指を立てて済ますこともできないこともないけど、日本の現状を考えたときに「巻き込まないでほしい」という言葉に対してはただただやるせなさが残る。(あと、今回通った法律だと、台湾人と外国人のカップルの場合、外国人側が属する国の法律で同性婚がNGだったら結婚できないといった問題も残っている)

 もやもやしつつ、台湾の詩人・鴻鴻さんが同性婚合法化の直前にFBにあげてた<同志>という詩を読んでた。2016年くらいに書かれたもののよう、最後の方にこうあった。

  けれど口を開く前に
  彼らはあなたが間違っていると言った
  ならば間違っていることにしよう
  地球だってもともと傾いているのだし
  でなければ四季も訪れない
  私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
  あの正しい人たちは
  自らの想像上の地獄で生かしてやろう
  彼らはそれを天国と呼ぶ

 台湾ではキリスト教信者で同性婚に強く反対する団体があって、詩の中の「彼ら」「正しい人たち」というのはその人たちを指しているのだと思う。「あなた」は同性愛者、あとに「私たち」というのが出てきてなんだか“当事者”の広がりを感じる。タイトルの「同志」は、同性愛について語る場面では「同性愛者」と訳されることが一般的だが、元々は中華圏とくに中国共産主義思想の下で思想を同じくする仲間に対する呼びかけとして用いられてきた背景がある。私はこの詩を読んで、単純に同性愛者という意味よりかは、読んで字のまま「志を同じくする者」という、より広い意味での「同志」に対して呼びかけているように読めた。もちろん共産主義者という意味でもない。
 
 地獄を地獄とも知らず天国と呼んでいるようなあいつらのことは放っておこう、という風刺は、場合によっては対話することを諦めるような、私が知人に対して抱いたようなネガティヴな態度に見えることもある。けど、現実に法律の後ろ盾を得た台湾に重ねてみれば、清々しく前向きにも聞こえる。誰にも邪魔されず(邪魔されても屁とも思わず)各々の幸せを掴みに行く決意でもある。まだ課題はあるだろうけど、今は喜んでいいのだ、祝福してよいのだ。

 自身もゲイである友人の、今回の出来事に関する解説を聞いていて、改めて台湾における社会運動に対する人々の意識の高さと、同時に参加することへの一般市民にとってのハードルの低さを感じた。台湾の社会運動では複数のイシューを巻き込みながら活動を進んでいくことが多いという。台湾初のプライドパレードで先頭を歩いたのがLGBTの当事者ではなく、セックスワーカーの女性であったことがそれを象徴している。それぞれ一見ばらばらに見える問題にもどこかに重なりを見出すことができ、共感や理解しようとする意思が生まれて、「私のこと」としてかかわっていくことができる。

 そういえば「私のこと」で思い出したけど、初めて『ある鰐の手記』を読んだとき、「これは私の物語だ」という感覚が強く湧いたのだった。そこには性的指向に関係なく共感できるものがあって、すなわち、どれだけ愛しても愛しても(相手からも周囲からも)理解してもらえない孤独、みたいなものだったのかと。この話、本の訳者あとがきとかで垂水さんがおっしゃってたような気もするんだけど、、、

詩の原文ここから
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「同性愛者」鴻鴻

彼らは言う自分たちは間違っておらず
あなたが間違っているのだと
彼らは言う想像上のあなたは間違っておらず
実際のあなたが間違っているのだと
彼らは言う自分たちの行く先は間違っておらず
行く先を探すあなたを手助けする人が間違っているのだと

彼らにとって好ましいものは みな信仰に仕立てられる
彼らにとって妬ましいものは みな誘惑と呼ばれる

あなたは言いたい
彼らは間違っていない
私も間違っていない
それが言い出せない

あなたは言いたい
愛することは間違いじゃない
愛さないことも間違いじゃない
彼らは違うと言う

彼らは違うと言う
違う違う違う違う違う違う違う

間違っているのは熱帯雨林、ウンピョウ、スマトラサイ
自由に生きながらも絶滅寸前の生き物すべて
間違っているのはサンタクロースのそりから
重荷に耐えられず逃げ出したトナカイ
間違っているのは人を愛して
ヘンタイ、キモイ、妖魔ニトリツカレテイルと言われる白娘娘(バイニャンニャン)※1
間違っているのは世界のあるべき姿

あなたは問いたい
文明はあるべき世界を変えるものか
それともあるべき世界を理解するものか
あなたは問いたい
紅豆(あずき)と緑豆こそが対になれるのか※2
それとも愛あってこそ対になれるのか
あなたは問いたい
信仰とはフィルター
針の孔
それとも一筋の虹
あなたは問いたい
まだ問いかけたい

けれど口を開く前に
彼らはあなたが間違っていると言った
ならば間違っていることにしよう
地球だってもともと傾いているのだし
でなければ四季も訪れない
私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
あの正しい人たちは
自らの想像上の地獄で生かしてやろう
彼らはそれを天国と呼ぶ
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(訳注)
※1 中国の伝説『白蛇伝』の物語に登場する、人に化けた蛇の妖怪。また、女性的な話し方、仕草をする男性に対する差別的な形容表現「娘娘腔」とかけていると思われる。
※2 紅豆(あずき)と緑豆は男女のメタファー。美しく着飾った男女を意味する「紅男緑女」ということわざがあり、婚礼時に紅豆と緑豆を用意する風習がある。

Thursday 11 April 2019

最近見てる台湾ドラマ、特に《我們與惡的距離》押し

最近見ている台湾ドラマ記録
・我們與惡的距離(悪までの距離)
・我是顧家男(僕は顧家男)→これどうやって訳すのがいいのか考え中
・愛情白皮書※2019年放送版(あすなろ白書)

【我們與惡的距離】公共電視 監督:林君陽、脚本:呂蒔媛
公共テレビはほんとにいいドラマを作ってくれますね。見ごたえある。
青年による無差別殺人事件をきっかけに人生が変わってしまった人々の物語を描く群像劇。殺人犯の担当弁護士、殺人犯の家族、殺された被害者の家族、そして事件をめぐって有る事無い事書き立てるメディア、世論、SNS...複数の視点があり、そのどれもが痛々しく、社会問題と、それから人間の汚さを抉り出してくる。

このシナリオはおそらく2015年、台北の地下鉄で実際に起きた無差別殺傷事件を題材にしているんだろう。ドラマの事件現場は映画館であったり、実際の事件とはいろんな点で設定が違うけど、当時台湾で議論になった「死刑制度の是非」がこのドラマでも大きなテーマになっている。

弁護士・王赦役に我らが愛しの吳慷仁。彼は被告人の死刑を回避しようとしており、死刑は根本的な解決にはならない、再発を防ぐために動機や原因を突き止めないとと訴える。実際にあった事件の犯人は2016年に死刑を執行されており、ドラマの中の被告人にも死刑の足音が迫る。王は動機を探るため被告人の心を開こうとするが一向に前進せず、家族との面会も断っており、事件の原因は謎に包まれたままだ。一方でメディアは闇雲にレッテルを貼る。親子関係が悪かったのだとか、いじめだとか。理解できなきないことは恐怖だから、人間は理由が欲しいのだ。そうして誹謗中傷、被害者への賠償と負い目に疲弊した家族は社会の隅に追いやられ、妹だけが名前を変えて、逃げるようにして家を出る。

母が実の娘に改名した新しい身分証を手渡すときの台詞。
「私たち家族で死ぬのは3人だけで十分(両親と被告人である兄のこと)」
「これから 両親は死んだことにしなさい」
ガチでここ一番の号泣シーンです。

この妹が「李曉文」ではなく「李大芝」として歩み始め、テレビの報道局で編集ディレクターの仕事に就くことができたとき、自分を抜擢した上司がまさに兄の手によって子どもを殺された被害者であることを知ってしまう。なんという皮肉。どこまでも追いかけてくる過去の影に挫折し、夢をあきらめるのか、それとも自ら打ち明けて和解しようとするのか、加害者の家族としての彼女の戦いも見どころの一つだ。李大芝役に陳妤という役者さん。2016年の《戀愛沙塵暴》に男勝りで恋愛に興味ない感じだったのが、友人の好きな人を好きになってしまう役で出てて、恋をしたとたんにすんごい柔らかいきゅんとする表情を見せるところがとても印象的だった。このドラマでは打って変わってシリアスな局面が多い(むしろシリアスしかないのでは)。

ほかにも様々な理由から統合失調症を患った人や、広く精神障害を持つ人々に対する世の中の誤解や偏見のえげつなさも描かれている。とにかく社会派でよく練り上げられた内容だ。


【我是顧家男】監督:北村豐晴、脚本:林其樂、林萱
これタイトルがよくて、主役の「顧家南(グージャーナン)」っていう人物名と「顧家男(グージャーナン※発音が同じ)」=「家庭を大事にする男」っていう言葉をかけてるの。ネイティブが聞くとしょーもな!って思うのかもしれんが。訳すの難しいな。

こちらも私の好きな俳優・黃健瑋が顧家南役で出ており今期は退屈しない。アイドルドラマに出てるの珍しくてちょっと違和感、いちゃつくラブシーンが妙にリアルでこそばゆい。「男に選ばれるのを待つ?そんな時代は終わった!これからは女が男を選ぶのさ!」という感じで、最近(結構前から?)よく見かける社会的地位とか経済的地位とかがヒロイン優位路線のお話。そういう意味では《姊的時代》もそうだった。違うのは、カップルが同年代であることと、最終的にヒロインが「落ち着いてて人柄がいいけど家柄と顔が普通な男」と「絵に描いたイケメンで家柄よさげな男」のどちらを選ぶのかって選択肢になるあたりか。二人の男性役の俳優が黃健瑋と謝佳見で、わかりやすくてウケた。

あとオープニングが逃げ恥の恋ダンスに人増やしてめちゃくちゃ金かけた感じでいい。(感想が雑)


【愛情白皮書】監督:李芸嬋、林君陽 脚本:劉瑋慈、溫郁芳、陳妤柔、劉蕊瑄(多いな)
これ日本の漫画原作でキムタクとかが出てドラマ化されてたんですね。それに台湾でも2002年にリメイクされて今回は二度目らしくて、5人のサークル仲間がいろいろあって別れたり、中には亡くなったりした後の話。

あまり期待せずに見始めたけど結構おもしろくて続いている。《翻牆的記憶》を見てから張庭瑚が気になっていたのでちょうどよかった。

原作と同じく松岡は交通事故死しており、残された息子を成美と星華が育てている(原作は“なるみ”と“星香”)。日本版も見てないやつを台湾版で見るのはなんか不思議な感じ。あと出演陣について調べてたら年下の20代前半とか結構いて時の流れを感じた。。。


…とまぁ結構もりだくさん。
うち、どれが日本語版くるんだろう。あすなろ白書あたりは来そうな予感。
私としてはぜひ《我們與惡的距離》を…!