Sunday, 9 May 2021

ヴィーガンについて考えたこと

急にヴィーガンに興味が湧いて、動物性の肉を食べることをやめてみようと思い立ち、手探りながら実践してみた。結果、長期的には続けることはできなかったのだが、食や人間について考えるよいきっかけにはなった。(注:ヴィーガンというと食だけではなく、毛皮や革製品などの動物を殺すことで得られる素材の生産、使用を反対するものではあるが、今回書く内容は主に食に関してである)

まずなぜヴィーガンを実践してみようと思ったか。きっかけはアニマルウェルフェアを訴えるサイトやSNSで公開されている、牛や豚や鶏の残酷な飼育、と殺を撮影した動画を見たことが大きい。映像だけでなく文章でも、アニマルライツを訴える人の考えを読んで共感したことがあった。そして一昨年から犬を飼い始めて、人間以外の生き物が身近になったことも、遠景にある。

そもそもヴィーガンの考え方の背景にあるのは、単に動物を食べるという行為がかわいそうだという感情的な理由だけではない。酪農による環境負荷や、海産物の乱獲によって生態系が壊されるといった環境問題も、動物性肉食を否定する理由のひとつである。私自身が興味を持ったのはどちらかというと感情的な理由からだが、加えて野菜中心の食事をすることで得られる健康面でのメリットも実践を後押しした。

まとめると、①動物の尊厳を守る、②環境負荷を軽減する、③人間自身の健康という3つの長所がヴィーガンの実践にはあると言われているわけだが、実際にやってみて、「果たして本当にそうといえるか?」という疑問がわくとともに、「動物の尊厳を守る」という考えに隠された人間の欺瞞や偽善について考えさせられた。

途中でヴィーガン食の徹底を諦めた一番の理由は単純で、ヴィーガンでも食べられる食材を調達し、植物性の食材だけで栄養が偏らない健康的な食事を続けていくために必要となる金銭的、時間的なコストが大きいと感じ、続けてはいけないと判断したからだ。実際、ヴィーガンを長年続けていた人が栄養に関する知識不足のためにかえって不健康になってしまい、動物性の食材を摂り始めて身体の不調がぱたりと治ったという例がある。始めたての私としては少しずつヴィーガンに移行し、栄養に関する知識を深めていくという方法がもちろんあったが、いかんせんそこまで労力をかけるほどヴィーガンを実践することに対する熱意や、ヴィーガンの考え方への深い共感がなかった。それに、情報を集め実践していく過程でヴィーガンに対する疑問や違和感はむしろ増えていった。

ヴィーガンに対して当たり前のように投げかけられるのが「植物は食べてもかわいそうじゃないというのか?」という反論である。これに関しては安直な反論で幼稚だと思いもするが、確かに当然湧いてくる疑問ではある。これに対し、ヴィーガンを主張する人たちの中では、植物には痛覚や感情がないから食べてもよい、という判断が主流らしい。だが、植物を消費することで動物や環境に悪影響を与えていることに関しては思い至らないヴィーガンもいるようだ。野菜や豆を生産する過程で人間が自然の生態系を破壊し、虫を殺し、小動物の住処を奪っていることは事実である。結局は植物を食べるにせよ動物を食べるにせよ、人間は他の生き物の犠牲なしには生きていくことができない。動物性の肉を食べず、植物性の食材も極力環境に配慮した方法で栽培された、虫食いのある、無農薬のものを食べる。それを徹底できる人はよいが、全員が全員そんな余裕や熱意があるとはいえないだろう。ヴィーガンの中にもグラデーションがあるように、ある問題(倫理的、社会的、環境、健康など)を解決する手段としての食の選択において、「どこで線引きをするか」が重要になってくる。

ここで食に関するタブーを設定している宗教のことを思いだす。植物と動物の間に線引きをしているヴィーガンも、その点では宗教におけるタブーの考え方と似ている。ある特定のタブーを避けるというルールを守っていれば、罪からはまぬかれるという意識が、実はヴィーガンの根本にはあるのではないか。つまり、ヴィーガンという思想や行為は、宗教が死んだ現代における一種の免罪符なのではないかと思うのだ。人間が生まれながらにして背負っている、他の生き物を犠牲にすることの罪から逃れる方法として、ヴィーガンは機能していると思うのだ(もちろん、罪から逃れられるというのは幻想にすぎないのだが)。

ところで、そもそもヴィーガンを推進する人たちは、どうするにしても人間の存在自体が他の動物にとって脅威であり、暴力的な存在であり、その事実が生きる限りつきまとうことを、どれだけ自覚しているのだろうか?まさにそれを自覚した上で上述のように線引きし、ヴィーガンを免罪符としているのだろうか?彼らの中には「あらゆる暴力にたいしてNOを訴えるのがヴィーガン」と考える人もいる。だが本当に人間はすべての暴力に対してNOと言い、それを完璧に実践できるだろうか?私はそうは思わない。免罪符としてヴィーガンを実践するならまだしも、人間の消し去ることのできない暴力性について無自覚なままヴィーガンを訴え、暴力性はゼロにできると信じて疑わないようならば、それは愚かな欺瞞・偽善にすぎないと思うのである。

こうやって考えてきてみて、私は過激なヴィーガンの人々には賛同しかねるが、免罪符として機能するヴィーガンの思想についてはアリだと思う。何事も原理主義は危うい。人間以外の生き物への暴力にNOを唱えるヴィーガンも、突き詰めれば人間自身の命を絶つ方向へと向かわざるを得ないと思う。人間として自身の暴力性に自覚的であり、そのことと日々向き合いながらも、健康的に生きるために(結局は人間本位なのである)他の命をいただいていく。今の私にはこの姿勢が一番しっくりきそうだ。


Saturday, 18 July 2020

2020年7月18日

好きだった俳優が死んだ。思いもよらぬ死だった。1歳も違わない、ほとんど同い年だ。ファンと呼べるほどではないが、彼の出演してた作品が好きで、彼の演技も好きで、舞台も見に行きたいと思っていた。もう二度と見ることの叶わない彼の舞台に。

まだ信じられない。彼は私たちと同じように年を重ねて、演技に磨きをかけて、渋さも増して、おじさんになっても、少なくとも芸能界を引退するまでは、いろんな表情や仕草を見せてくれると思っていた。それがもう見られないのだと、私の中で彼はいつまでも30歳の姿で、あるいはそれ以前の写真や映像だけが残されていて、私だけが年をとるのだと、素直には受け入れられずにいる。

多くの人が死んできた、歌手でも俳優でも。多くの人が悲しんできた、でもすぐに忘れていく。どうせ。けれど今回はなぜか、これまで以上に悲しかった。年が近いせいだろうか?自分だけ(もちろん、大勢の人が他にもいるわけだけど)が年を取るという感覚、虚しさのようなもの、それをこれから幾度か味わうことになるだろう事実を突きつけられて、胸がしめつけられた。この気持ちを忘れたくない、彼がいたことを忘れたくないと思って、ここに書き残すことにした。

Sunday, 17 May 2020

「翻訳」についての覚書

大学時代の知人が、最短40日間でプロ翻訳者になれるとうたう翻訳学校を経営していると知って唖然とした。彼のサイトやFacebookを見てみると、「語学力がなくても」とか「1000万かせげるようになる」とか、ちょっと信用しがたい言葉が散見された。詐欺まがいと片付けて無視することはできるが、何か自分にも向き合うべき問題がここに見え隠れしているような気がして考え込んでしまった。

彼は基本的に機械翻訳を活用し、過去の翻訳事例をリサーチするなどしたうえで、最終的に日本語を組み立てるという手法を伝授しているようなのだけど、正直、それ自体は翻訳作業の一つとしてあながち間違っているわけでもないと思える。私も特許翻訳の仕事で機械翻訳を使ったことがあるし、近年の精度向上には驚きもある。批判が起きている一番の理由は、「語学力がなくてもプロ翻訳者になれる」「1000万円かせげる」といった過剰な広告、宣伝文句にあるのではないか。機械翻訳を使いこなせたとて、最終的にそれが合っているのかチェックするには語学力がいるし、自然な文章にするには母語の表現力もいる(もしかすると、これも先入観に過ぎないのかもしれないが)。そこをすっ飛ばしていることに、私たちは違和感を持っているはずだ。

今、すっ飛ばすという言葉を使ったのだけど、そう考えると、私は翻訳するにあたり基礎となる能力に「語学力」「日本語表現力」を置いていることになる。たぶん、世間一般の認識もそうであるはず。その基礎あって、なおかつ機械というツールを活用するという順番であり、その逆はおかしいと。機械翻訳や検索を巧みに使いこなすだけなら、それは「翻訳」ではないと思われるかもしれない。でもここで疑問が浮かぶ。「翻訳」ってそもそも何なのか?なぜ「語学力」がないとできない(「語学力」なしでできるなんておかしい)と感じるのか?

辞書では翻訳とは「ある言語で表された文章を他の言語に置き換えて表すこと。また、その文章。」とある。その定義ではただ「置き換えて表す」とあるだけなので、手段は問われていない。機械を通そうが、人間の頭だけでやろうが、他の言語に置き換えられていればそれで翻訳となる。いっぽう、翻訳とは「言葉に対する暴力だ」と言う人がいた。私はかなり同感するというか腑に落ちる。翻訳する過程で元の言葉は読解を名目に切り刻まれ、脳内で原形もとどめないほどドロドロに溶解された上、ふたたび形ある別の言葉として乱暴に再構築される。どれだけ忠実に訳そうとしても、そこには訳者の意図や個性が介在してしまうし、何なら翻訳はひとつの創作行為であって、訳されたものは本来のものとはまったく別の作品と捉えるべきと考える人もいる。産業、映像、出版など翻訳のジャンルにもよると思うので一概には言えないけれども、翻訳に創作的な側面が少なからずあることは確かだと思う。

ただし、ここから先はマインドというか、個々人の哲学みたいな話になってしまうのだが、翻訳者というのは、翻訳という行為が本質的に暴力であるということを踏まえたうえで、それでもやむを得ず行為する場合に、暴力によって生まれる言葉の傷や確執のようなものを最小限に抑えることを求められるものではないか。言い換えれば、本質的に暴力である翻訳行為をどれだけ元の言語や文章に敬意を持って接するかという態度が、翻訳者には問われているのではないか。そして敬意を持つということはすなわち、元の言語に対するそれ相応の理解(語学力)を身につけているということであり、翻訳する先の言語において適切に言葉を選ぶことのできる能力を備えているということではないか。そしておそらくそれらは、生い立ちや環境によって個人差はあるものの、地道な努力(あまり使いたくない言葉)によって獲得していくしかないものなのではないか。

ある意味、語学力がないと翻訳ができないわけではなくて、クライアントと翻訳者の姿勢が一致するかどうかという問題なのかもしれない。実際、そういう態度(良心、と言ってもよいだろうか)が別段求められない翻訳もあると思う。ランサーズとかクラウドワークスとか出ている求人のようなハチャメチャに単価の低い案件なんかは、その部類と見ていいのでは。これだけ機械翻訳の精度が上がってきている中、生身の翻訳・翻訳者がどうやってその価値を保ち、高めていくかというのは自分自身に問われている課題であり、それを考えた時に上記のようなことがキーワードになってくるんじゃないかと感じている。なんか精神論、根性論みたいでちょっと後味悪いんだけど…。まあ、私は、できればそういう態度を求めてくれる人と仕事をしたいし、自身がそこを大切にできる翻訳者でありたいと今は思う。

Wednesday, 29 May 2019

台湾ドラマ『太陽を見つめた日々』(めっちゃネタバレあり)

 『太陽を見つめた日々』(原題:他們在畢業的前一天爆炸※直訳すると「彼らは卒業の前日に爆発した」)は2011年に台湾で放送された5話完結(予定だった)のドラマだ。主人公の陳浩遠(チェン・ハオユエン)は成績優秀で友人思いの所謂“善良な”少年。高校入学をきっかけに軽音部でギター&ボーカルを担当する王丁筑(ワン・ディンジュー※以下アディンと呼ぶ)と知り合い、いつしか二人は付き合いはじめる。ハオユエンはそんな風にしてつつがなく高校生活を送り、青春の色鮮やかな日々を過ごしていくかのように見えたが、入学式の当日に屋上で出会った議員の息子・洪成揖(ホン・チェンイー)が銀行強盗未遂をしたことを知り、ハオユエンの中にも何らかの不穏な影が落とされ、物語が幕を開ける。

 一見青春ドラマに思えるこの作品が実にどれだけ社会への批判性、反抗性を帯びているか、話数を追うごとにその強烈さは淡々と増していく。その淡々とした描写が、まだあどけなさの残る少年の横顔に潜む狂気や暴力性を際立たせる。ハオユエンが受けた辱めの仕返しにチェンイーが男たちにとびかかり、耳を食いちぎるときの異様な目。あれは17や18の子どもが持っていていい目ではない。己の存在の不確かさから逃れるためには肉体を行使して確かめるしかない。腕を振り上げ拳をぶつけ、血を味わう。けれどそうしたからといって救われるわけではなく、問題の根本にあるもの――父親の不在――を解決しない限り、いつでも暴発しうる時限爆弾を抱えることになる。

 ここに写される少年少女は、学校の教師や親からは子ども扱いされながら同時にもう子どもであることを許されない状況に置かれ苦しんでいる。ピアノ、ドラム、ギターなどいくつもの楽器が弾けて才能さえ見いだされるハオユエン。しかし父ひとり子ひとりの家庭で父は友人の借金を肩代わりさせられ、無職の上にさらに借金を重ねてゆく中、音楽をやりたいなどとは言い出せない。父の期待に応えて一流大学の法学部を目指すも、金銭的事情でそれすら危うくなる。追い打ちをかけるかのように、金融業者は容赦なく取り立てにやってきて父親は頭を下げることしかできない。ハオユエンは葛藤の中で、父の善良さを知っていながらついその心の弱さを攻め立ててしまう。

 またアディンの親友・林筱柔(リン・シャオロウ)はアディンと疎遠になってしまった孤独からネットに出会いを求め、そこで出会った男から麻薬を強要され、性的暴行を受けてしまう。秘密を知ってしまったハオユエンは彼女を助けようとするも、教師たちはそんな彼を鼻で笑い飛ばす。シャオロウは「汚れてしまった」という意識から、そして痛ましい経験から募らせてしまった男性へのあるいは対人関係すべてにおける不信感から、友人とも距離をとり、純粋に好意を抱いてくる先輩のことも拒絶する。一方で親身になってくれた数学教師に対して師弟以上の関係を求めてしまう。

 数学教師とハオユエンの間で交わされる会話が印象深い。シャオロウを身籠らせてしまった教師が責任を取って辞めるという。どうしてこんなことになったのか、これからどうすればいいのか、なにがただしいのか、先生にもわからない。そういったことを言う教師に対して、先生がそんなことを言うな、生徒である僕たちはどうしたらいいんだと、ハオユエンが声を荒げる。信頼していた大人が無力であることを知るとき、大人になることへの幻想は打ち砕かれ、同時に無垢な子どもでもいられない現実に存在は引き裂かれてしまう。

 実は、チェンイーの育ての親である議員は、自身の利益のために人を雇い(あるいは人に罪を着せ)殺人を犯すような悪徳政治家だった。そして議員がその街の金融会社を裏で操り資金源とし、警察官を自分の犬にして、借金の取り立てまでさせている。そう、ハオユエンの家に押し掛けたのはその犬だった。挙句、ハオユエンに大学進学のための援助を持ち掛ける。だがハオユエンには分かっていた。議員が自分を進学させ、法律家にした暁には、利用しようとしていること。チェンイーの実父を刑務所送りにしたのが議員であること。大人たちがいかに役立たずであるかということ。そして自分の置かれている今の状況が彼らの傲慢で怠惰で身勝手な行動よって生み出されてしまったということ。

 少年は拳銃を握りしめ、たった一人で敵に立ち向かう。彼は私ではなかったと、あなたではなかったと言えるだろうか。「よかった時の僕のことを覚えていてほしい」その一言を恋人に言い残し、少年は白昼の闇の中へと突き進んでゆく。

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 どの役者も秀逸な演技でみせてくれているのだが、やはり「狂気の目」を持ったチェンイーこと巫建和(ウー・ジエンホー)なしでは語れない。彼は映画『共犯』(2014年)にも出演していて、どこか孤独の影が差す落ち着いた少年の役柄を演じている。その落ち着きが逆に背筋の凍るような気持ち悪さを抱かせるところがあった。2011年の時点でこのドラマであの芝居しててからの共犯か…と思うと末恐ろしいとさえ思うのだが、去年は呉慷仁と共演して『憤怒的菩薩』(陳舜臣による同名小説が原作)に出演していたようでこれは要チェックだ。呉慷仁といえば、『太陽を見つめた日々』にも呉慷仁がちょい役で出演している。さらには黃建偉(議員の犬役)、許瑋甯も出演していて、まさに製作側の伏線かと思わせるほど2015年の台湾ドラマ『麻醉風暴』の主要キャストが勢ぞろいしていた。監督の鄭有傑は映画『太陽の子(太陽的孩子)』でもレカル・スミと共同でメガホンをとった、社会問題や社会運動への関心が強い人物だ。(以前書いた太陽の子の感想こちら)

 2017年には《他們在畢業的前一天爆炸2》すなわち『太陽を見つめた日々2』が公開された。日本では1とともにネットフリックスで鑑賞可能。残されたアディンとチェンイーのその後が描かれ、ハオユエンを彷彿とさせるまっすぐな瞳の学生運動団体のリーダー何士戎(ホー・シーロン)が登場。シーロン役には新たなキャスト・宋柏緯(ソン・ボーウェイ)が。最近では『愛情白皮書(あすなろ白書)』(2019年)にも出演していて、自作の曲がドラマのテーマソングにも使われている多芸多才な役者だ。

 シーズン2では中国との間で取り交わされた不正な経済貿易協定をめぐって学生をはじめ市民が大規模なデモを行った2014年の「太陽花運動(ひまわり運動)」や、中国マーケットからの反感を受けて、台湾独立を連想させるような言動をとった芸能人が謝罪をさせられた事件など、1よりも一層、社会的なイシューに焦点を当てつつその渦中でもがく若者の姿を描く。

 こういう台湾の作品を見ていると、社会という大きな集団が抱える問題と、恋愛や就職といった個人的な悩みとが切り離せないものであることを改めて思い知らされる。たぶん、成長していくごとにそのことを忘れがちで、そもそも仕事が忙しすぎて悩むための時間も、世の中で起きてる問題にコミットする時間もないというのが私、私たちの常なる現状だと思う(これは言い訳に過ぎないかもしれないが)。けどどこかで、少なくとも私は、彼らのような青臭さを求めてもいる。そしてハオユエンやシーロンのように、向こう見ずな情熱を持っていたいとさえ思う。拳銃は私たちの手に託されている。

 鄭有傑監督は日本でも訳本が出版された『歩道橋の魔術師』(呉明益著/天野健太郎訳)のドラマを製作中らしい。こちらも非常に楽しみ。そういえば、『太陽を見つめた日々』といい、『太陽の子』といい(「太陽花運動」もそうだけど)、この監督は太陽に縁のある人なのかしらね。

Monday, 27 May 2019

台湾で同性婚合法化に おめでとう

 先日、台湾で同性婚を合法化する法案が可決された。台湾の友人たち、改めておめでとう。このニュースに少しだけ関連して、最近あったこと、考えていたことをとりとめもなく書き残す。

 その日、台湾からの吉報に私は喜んでいた。幸せな気持ちになって、会話でも話題にしてみたんだけど、ある知人と話したときその人が「よかったね、おめでとう、ニュース見たよ」といい、直後に「同性愛者の人らで勝手にやってくれる分にはいいけど、こっちまで巻き込まないでほしい」と言った。一瞬なにを言ってるのか理解できず、というのも矛盾しているように感じたからで、二つのセンテンスを同じ人が言っているとは思えなかった。とりわけ「巻き込まないで」という言葉が一晩中胸につっかえていた。それは少なくとも私には暴力的に聞こえて、言葉の奥に悪意さえ感じとれてしまった。はっきり言って傷ついた。

 ちなみに、私には女性だという自覚があり、恋愛対象は男性で、異性愛者であり、男性と結婚しています。過去に女性に対して恋愛に似た特別な感情を抱いたことがないこともないですが、それを男性を好きになることと全く同じ感情だったとは言い切れません。だから“当事者”かと問い詰められるとそうだと言えない。ただ以前から、同性婚や同性愛というテーマにはとても関心があった。これは私が初めて読んだ台湾小説がレズビアンの視点で恋愛の苦悩を描いた『ある鰐の手記』(邱妙津著/垂水千恵訳)であったこと、それから同性愛者であることを自認する友人がいることと関係があるのだと思う。

 話を戻すと、知人と別れたあとももやもやが続いたので、「巻き込まないでほしい」ってどういうことなのか?と深く突っ込まなかったことを少し後悔した。夫にこの話をしてみたところ、それはデモとかの抗議活動のこと言ってるのではないかという意見だった。例えばプライドパレードのせいで道が混雑して困ったとか、シュプレヒコールがうるさいとか。仮にそうだとして、つまり噛み砕くと「同性愛者が愛し合ったり、結婚できるようになるのはいいこと、だけど権利を主張する方法をもう少し工夫して、他の人に迷惑かけないようにしてくれると嬉しい」みたいなことだったのだろうか。だとしてもそこから「巻き込まないで」という言葉に至るとは思えず、そもそも誰にも全く迷惑をかけずに何かをやれってめちゃくちゃ難しいことなのに軽く言うよな、つーかデモとか抗議とかむしろ周囲を巻き込んでなんぼのもんでは、と感じる節もあり…今でもやっぱりどこか引っかかっています。

 たぶん数年前なら、学生のころなら、私はその場で突っ込んで聞いていたと思う。そうしなくなった理由には、意見がぶつかるのが面倒だし、考えは人それぞれ、最終的には分かり合えないこともあるというネガティブな諦めの他に、「余計なお世話だよ」「言われなくても勝手にやるよ」と心の中で中指を立てて済まそうとするポジティブな潔さみたいなのがある。ただし、そうやって済ませるには、私自身や話に関わる人たちの権利が保障され、差別されず、心身ともに安全でいられることなどが前提にないと難しい。今回の場合は、法律上で同性婚が認められた台湾で考えれば中指を立てて済ますこともできないこともないけど、日本の現状を考えたときに「巻き込まないでほしい」という言葉に対してはただただやるせなさが残る。(あと、今回通った法律だと、台湾人と外国人のカップルの場合、外国人側が属する国の法律で同性婚がNGだったら結婚できないといった問題も残っている)

 もやもやしつつ、台湾の詩人・鴻鴻さんが同性婚合法化の直前にFBにあげてた<同志>という詩を読んでた。2016年くらいに書かれたもののよう、最後の方にこうあった。

  けれど口を開く前に
  彼らはあなたが間違っていると言った
  ならば間違っていることにしよう
  地球だってもともと傾いているのだし
  でなければ四季も訪れない
  私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
  あの正しい人たちは
  自らの想像上の地獄で生かしてやろう
  彼らはそれを天国と呼ぶ

 台湾ではキリスト教信者で同性婚に強く反対する団体があって、詩の中の「彼ら」「正しい人たち」というのはその人たちを指しているのだと思う。「あなた」は同性愛者、あとに「私たち」というのが出てきてなんだか“当事者”の広がりを感じる。タイトルの「同志」は、同性愛について語る場面では「同性愛者」と訳されることが一般的だが、元々は中華圏とくに中国共産主義思想の下で思想を同じくする仲間に対する呼びかけとして用いられてきた背景がある。私はこの詩を読んで、単純に同性愛者という意味よりかは、読んで字のまま「志を同じくする者」という、より広い意味での「同志」に対して呼びかけているように読めた。もちろん共産主義者という意味でもない。
 
 地獄を地獄とも知らず天国と呼んでいるようなあいつらのことは放っておこう、という風刺は、場合によっては対話することを諦めるような、私が知人に対して抱いたようなネガティヴな態度に見えることもある。けど、現実に法律の後ろ盾を得た台湾に重ねてみれば、清々しく前向きにも聞こえる。誰にも邪魔されず(邪魔されても屁とも思わず)各々の幸せを掴みに行く決意でもある。まだ課題はあるだろうけど、今は喜んでいいのだ、祝福してよいのだ。

 自身もゲイである友人の、今回の出来事に関する解説を聞いていて、改めて台湾における社会運動に対する人々の意識の高さと、同時に参加することへの一般市民にとってのハードルの低さを感じた。台湾の社会運動では複数のイシューを巻き込みながら活動を進んでいくことが多いという。台湾初のプライドパレードで先頭を歩いたのがLGBTの当事者ではなく、セックスワーカーの女性であったことがそれを象徴している。それぞれ一見ばらばらに見える問題にもどこかに重なりを見出すことができ、共感や理解しようとする意思が生まれて、「私のこと」としてかかわっていくことができる。

 そういえば「私のこと」で思い出したけど、初めて『ある鰐の手記』を読んだとき、「これは私の物語だ」という感覚が強く湧いたのだった。そこには性的指向に関係なく共感できるものがあって、すなわち、どれだけ愛しても愛しても(相手からも周囲からも)理解してもらえない孤独、みたいなものだったのかと。この話、本の訳者あとがきとかで垂水さんがおっしゃってたような気もするんだけど、、、

詩の原文ここから
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「同性愛者」鴻鴻

彼らは言う自分たちは間違っておらず
あなたが間違っているのだと
彼らは言う想像上のあなたは間違っておらず
実際のあなたが間違っているのだと
彼らは言う自分たちの行く先は間違っておらず
行く先を探すあなたを手助けする人が間違っているのだと

彼らにとって好ましいものは みな信仰に仕立てられる
彼らにとって妬ましいものは みな誘惑と呼ばれる

あなたは言いたい
彼らは間違っていない
私も間違っていない
それが言い出せない

あなたは言いたい
愛することは間違いじゃない
愛さないことも間違いじゃない
彼らは違うと言う

彼らは違うと言う
違う違う違う違う違う違う違う

間違っているのは熱帯雨林、ウンピョウ、スマトラサイ
自由に生きながらも絶滅寸前の生き物すべて
間違っているのはサンタクロースのそりから
重荷に耐えられず逃げ出したトナカイ
間違っているのは人を愛して
ヘンタイ、キモイ、妖魔ニトリツカレテイルと言われる白娘娘(バイニャンニャン)※1
間違っているのは世界のあるべき姿

あなたは問いたい
文明はあるべき世界を変えるものか
それともあるべき世界を理解するものか
あなたは問いたい
紅豆(あずき)と緑豆こそが対になれるのか※2
それとも愛あってこそ対になれるのか
あなたは問いたい
信仰とはフィルター
針の孔
それとも一筋の虹
あなたは問いたい
まだ問いかけたい

けれど口を開く前に
彼らはあなたが間違っていると言った
ならば間違っていることにしよう
地球だってもともと傾いているのだし
でなければ四季も訪れない
私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
あの正しい人たちは
自らの想像上の地獄で生かしてやろう
彼らはそれを天国と呼ぶ
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(訳注)
※1 中国の伝説『白蛇伝』の物語に登場する、人に化けた蛇の妖怪。また、女性的な話し方、仕草をする男性に対する差別的な形容表現「娘娘腔」とかけていると思われる。
※2 紅豆(あずき)と緑豆は男女のメタファー。美しく着飾った男女を意味する「紅男緑女」ということわざがあり、婚礼時に紅豆と緑豆を用意する風習がある。

Thursday, 11 April 2019

最近見てる台湾ドラマ、特に《我們與惡的距離》押し

最近見ている台湾ドラマ記録
・我們與惡的距離(悪までの距離)
・我是顧家男(僕は顧家男)→これどうやって訳すのがいいのか考え中
・愛情白皮書※2019年放送版(あすなろ白書)

【我們與惡的距離】公共電視 監督:林君陽、脚本:呂蒔媛
公共テレビはほんとにいいドラマを作ってくれますね。見ごたえある。
青年による無差別殺人事件をきっかけに人生が変わってしまった人々の物語を描く群像劇。殺人犯の担当弁護士、殺人犯の家族、殺された被害者の家族、そして事件をめぐって有る事無い事書き立てるメディア、世論、SNS...複数の視点があり、そのどれもが痛々しく、社会問題と、それから人間の汚さを抉り出してくる。

このシナリオはおそらく2015年、台北の地下鉄で実際に起きた無差別殺傷事件を題材にしているんだろう。ドラマの事件現場は映画館であったり、実際の事件とはいろんな点で設定が違うけど、当時台湾で議論になった「死刑制度の是非」がこのドラマでも大きなテーマになっている。

弁護士・王赦役に我らが愛しの吳慷仁。彼は被告人の死刑を回避しようとしており、死刑は根本的な解決にはならない、再発を防ぐために動機や原因を突き止めないとと訴える。実際にあった事件の犯人は2016年に死刑を執行されており、ドラマの中の被告人にも死刑の足音が迫る。王は動機を探るため被告人の心を開こうとするが一向に前進せず、家族との面会も断っており、事件の原因は謎に包まれたままだ。一方でメディアは闇雲にレッテルを貼る。親子関係が悪かったのだとか、いじめだとか。理解できなきないことは恐怖だから、人間は理由が欲しいのだ。そうして誹謗中傷、被害者への賠償と負い目に疲弊した家族は社会の隅に追いやられ、妹だけが名前を変えて、逃げるようにして家を出る。

母が実の娘に改名した新しい身分証を手渡すときの台詞。
「私たち家族で死ぬのは3人だけで十分(両親と被告人である兄のこと)」
「これから 両親は死んだことにしなさい」
ガチでここ一番の号泣シーンです。

この妹が「李曉文」ではなく「李大芝」として歩み始め、テレビの報道局で編集ディレクターの仕事に就くことができたとき、自分を抜擢した上司がまさに兄の手によって子どもを殺された被害者であることを知ってしまう。なんという皮肉。どこまでも追いかけてくる過去の影に挫折し、夢をあきらめるのか、それとも自ら打ち明けて和解しようとするのか、加害者の家族としての彼女の戦いも見どころの一つだ。李大芝役に陳妤という役者さん。2016年の《戀愛沙塵暴》に男勝りで恋愛に興味ない感じだったのが、友人の好きな人を好きになってしまう役で出てて、恋をしたとたんにすんごい柔らかいきゅんとする表情を見せるところがとても印象的だった。このドラマでは打って変わってシリアスな局面が多い(むしろシリアスしかないのでは)。

ほかにも様々な理由から統合失調症を患った人や、広く精神障害を持つ人々に対する世の中の誤解や偏見のえげつなさも描かれている。とにかく社会派でよく練り上げられた内容だ。


【我是顧家男】監督:北村豐晴、脚本:林其樂、林萱
これタイトルがよくて、主役の「顧家南(グージャーナン)」っていう人物名と「顧家男(グージャーナン※発音が同じ)」=「家庭を大事にする男」っていう言葉をかけてるの。ネイティブが聞くとしょーもな!って思うのかもしれんが。訳すの難しいな。

こちらも私の好きな俳優・黃健瑋が顧家南役で出ており今期は退屈しない。アイドルドラマに出てるの珍しくてちょっと違和感、いちゃつくラブシーンが妙にリアルでこそばゆい。「男に選ばれるのを待つ?そんな時代は終わった!これからは女が男を選ぶのさ!」という感じで、最近(結構前から?)よく見かける社会的地位とか経済的地位とかがヒロイン優位路線のお話。そういう意味では《姊的時代》もそうだった。違うのは、カップルが同年代であることと、最終的にヒロインが「落ち着いてて人柄がいいけど家柄と顔が普通な男」と「絵に描いたイケメンで家柄よさげな男」のどちらを選ぶのかって選択肢になるあたりか。二人の男性役の俳優が黃健瑋と謝佳見で、わかりやすくてウケた。

あとオープニングが逃げ恥の恋ダンスに人増やしてめちゃくちゃ金かけた感じでいい。(感想が雑)


【愛情白皮書】監督:李芸嬋、林君陽 脚本:劉瑋慈、溫郁芳、陳妤柔、劉蕊瑄(多いな)
これ日本の漫画原作でキムタクとかが出てドラマ化されてたんですね。それに台湾でも2002年にリメイクされて今回は二度目らしくて、5人のサークル仲間がいろいろあって別れたり、中には亡くなったりした後の話。

あまり期待せずに見始めたけど結構おもしろくて続いている。《翻牆的記憶》を見てから張庭瑚が気になっていたのでちょうどよかった。

原作と同じく松岡は交通事故死しており、残された息子を成美と星華が育てている(原作は“なるみ”と“星香”)。日本版も見てないやつを台湾版で見るのはなんか不思議な感じ。あと出演陣について調べてたら年下の20代前半とか結構いて時の流れを感じた。。。


…とまぁ結構もりだくさん。
うち、どれが日本語版くるんだろう。あすなろ白書あたりは来そうな予感。
私としてはぜひ《我們與惡的距離》を…!


Thursday, 27 September 2018

俳優がもつ権利の話とか

仕事の関係で縁あって「俳優の仕事と地位に関する国際間対話」というシンポジウムに参加してきた。
国際俳優連合に加盟している国の代表者を招き、俳優(ここでは“実演家”と呼ぶ)を取り巻く労働環境、権利保障について各国の状況を報告し合い、意見交換するという内容。
権利を勝ち取るためにこれまでの取り組みや、今後の課題について話されていた。
日本の主催者である日本俳優連合としては、若い実演家たちの権利意識を高め、日俳連加盟を促す目的もあったようで、海外の登壇者はしきりに団結を鼓舞する発言を繰り返していた。

日本の現状としては、たとえば映画として制作された作品に関して、その後のDVD化、ネット配信化など転用の発生にかかわらず、出演者への転用料支払いが法制化されていないなど、実演家にとって不公正な状況が続いているとのことだった。いわゆる買い取り方式・オールライツなどと呼ばれるやり方だ。
また、最近だとネットフリックスやアマゾンプライムなどのネット配信では過去の作品も見られたりするが、その配信によって発生した収益は実演家たちに還元されていない。
新しいメディアをめぐるこの問題は日本だけが直面しているものではないが、特に日本では現行の著作権法が不十分で、実演家の権利を守る法整備が海外、特に西欧諸国に比べて遅れているそうだ。

ネットフリックス問題、とここでは呼んでしまうが、彼らは各国のプロデューサーを起用しながら低予算でオリジナル作品を製作するので、当然ながら出演者たちに支払われるギャラが切り詰められていくそうである。そういえば、日頃ネットフリックスを見ていて、作品によっては字幕翻訳の質の低いものがあり、もしやこれも低予算が原因か?と思い当たる。

特に最近で自分のおすすめしたい台湾ドラマ『子供はあなたの所有物じゃない』は、教育問題、親子関係、受験戦争などをテーマにしててファンタジー要素を取り入れたちょっと世にも奇妙な物語的な怖さもあるオムニバス作品で、1話が映画1本分の濃さで非常に面白いのだが、この日本語字幕がなんとも残念なのである。誤訳に誤字脱字、話者の性別と口調が一致しないなどチラホラ…。誤訳はまだしも、誤字脱字や口調のミスは手抜きに他ならないように思うのだが、クオリティチェックの欠如か、これも低予算のせいだろうか。作品自体とてもいいものなのに、字幕がこれでは本当に残念。

…と、話が大幅に脱線してしまった。なにはともあれ、ネットフリックスをけなしたいわけではなく、むしろヘビーユーザーなんだが、新しいメディアには新しい問題がつきもので、私たちはその変革期の中にいるのだなと改めて思う。

日本で実演家の権利保障が進まないのには、業界内の問題だけでなく、日本全体の権利に対する意識の低さというか、労働組合そのものの地位の低さというか、関係してるんだろうなと思う。今日は普段は聞けない話が聞けて、久々に頭を使ういい時間になった。

Sunday, 3 June 2018

台湾映画『軍中楽園』を観てきた

しばらく忙しい時期が続いていてやっと一段落したので、今日は久々に映画館へ足を運んだ。
台湾映画『軍中楽園』をユーロスペースにて鑑賞。字幕翻訳は神部明世さんだった。
ネタバレもありの感想は以下。

冒頭、浜辺に整列させられた羅保台のぎこちないしかめっ面。それは愛の何かも女の体も知らず、我が身に降りかかる"運命"の残酷さに気づく前の青年の姿だった。

序盤はなぁんだ歴史ものにしては意外とメロドラマの延長みたいなライトな映画だなと思わせておいて、徐々に不穏な空気が漂い始める。映画に出てくる月下美人とは、楽園にいる女たちのことでもあるのだろう。花言葉は儚い美、儚い恋。美しい花弁を一枚一枚はがしてゆけば、楽園の外からは決して見えない彼女たちの胸の内や過去が露わになる。女は生き延びるために自分にも他人にも嘘をつかねばならない。「最低層の男よりも卑しい」身売りする女性を蔑むときの、ステレオタイプでありがちな台詞。それを口にするのが他でもない女性本人であるとき、なんとも悲痛に、皮肉に聞こえることだろう。内面化されたイメージは彼女にとって拭い去れぬ“汚れ”となり、それをどうにか振り払うように、無邪気の仮面をかぶる。

一番胸が痛んだのは、老張が母を思い叫ぶシーン、許嫁を思い阿嬌に手を下してしまうシーン。そして二人にとってあり得たかもしれない幸せがスクリーンに映し出されたひととき。もう戻らないということ、それは失われたのだということを思い知らされることほど、人を絶望の淵に追いやるものはない。「大陸になんて戻れやしない」その一言は致命的だった。致命的な一言といえば、「初めての相手は…」とか言い残して部屋を飛び出しやがった羅保台にはまじでお前なんやねんとどついてやりたくなった。ひどい男を通り越してある種の情けなさを感じる。覚悟ができていないのは男の方だ。

そういえば、老張が羅保台に自分の来歴を話して聞かせるシーン、母との別れ、故郷への想いが一通り吐露されたところで老張が確か「母さん」だったか、母のことを大声で呼ぶシーンがあり、その直後に母の返事の代わりに砲撃の音がし、羅保台が思わず「幹你娘(FuXX your mother)」って言っちゃうんだけど、それを聞いて老張もまた故郷の言葉で暴言を吐いて、羅保台がその発音を真似して悪態ついて……なんかこう、日本語には訳しきれない部分だなと思った。訳すと全部が全部「ちくしょう」とかになっちゃう。

監督はパンフレットのインタビューで、「芸術と娯楽の中間にあるような映画が撮れないか、いつも考えています」と述べていた。本作を見た上では確かに思惑通りの出来上がりなのではという印象。歴史の語りから意図的に取りこぼされてきた831「軍中楽園」、そして「侍応生」と呼ばれた慰安婦の女性たちの存在。それに加えて国民党軍の老兵が抱えて来た苦悩と、映画に詰め込まれたテーマはこれでもかと重い。それが、どこかこう、やわらかいような軽やかなような空気感というか、多少クスっとしても許される余地が、いい意味で娯楽性が、どこかに残されていたように思う。妮妮の歌声、のしかかる男を尻目に本を読む女のたくましさ、手錠でつないだまま女子トイレにお供する羽目になる羅保台、国軍慰労公演のステージパフォーマンスに浮かれる男たち(まさに娯楽!テレサテンと白嘉莉が登場)……。まあ、それら休閑があることによって、楽園の悲劇が際立ってしまうわけなのだけれど。

歴史を描く、という意味では浅くなってしまったのかもしれないけど、その結果、映画館に足を運ぶ老若男女からすれば比較的見やすかったのかもしれない。この映画の主題だけにとどまらず、いまは「歴史に名を残すのみ」となった彼ら、彼女らの物語をより多くの人々につたえるためには、時にシリアスを押し付けるだけではだめで、さじ加減が重要なのだろうと思った。それが監督の苦戦しているところでもあるのだろう。

台湾の友人たちはどう観たんだろう、気になる。久々に連絡を取ってみようか。


Friday, 28 July 2017

《戀愛沙塵暴》の感想など。

今さらながら《戀愛沙塵暴》を観た。
勘違い、すれ違い、不信感…家族や友人、恋人との関係上にある綻びが、小さなきっかけで大きな裂け目になる。でもそれが、関係を修復するための、あるいは見直すための、大切なきっかけともなる。林一家のそれぞれが経験する、恋愛に絡む成長物語?という感じだった。

スローモーション取り入れたり照明を急に変えたり、非現実的な映像交えたり、演出が適度に奇抜でおもしろかったのもあるけど、それに合わせて俳優陣の演技もキレッキレで退屈しない。林家の長男・林亦得を演じたのは安定の吳慷仁。愛想を振りまいて機嫌をとるのがうまいけど、ここぞというときに大事なことをはっきりと相手に伝えられない。そのせいでわがままと束縛を繰り返す恋人の言うがままにされて挙句に仕事を失う情けない役柄。その“お姫様症候群”の恋人役をする葉星辰の演技もキョーレツ。背後から亦得にスタンガンを浴びせる時の狂気じみた笑み。彼女にはしたくないし、自分もああいう人間にはなりたくないけど、自らの欲望を曲げることなく直球でぶつけてくる強さは少しくらい見習ってもいいかもしれない。

一番気になったのは長女・林亦珊と莊浩洋の恋。友情か愛情かで躊躇せず友情を選んでしまう純粋さ。だからといって恋心をなかったことにできるはずもなく苦しい。葛藤する役どころを演じたのは新人の陳妤という女優さん。相手役も新人だそうで許光漢という。撮影中のおまけ映像では、監督から演技指導を受ける陳妤の姿を見た。初々しいようで情熱的な演技をするなあと思った。中国語で言う「一夜情」は「一夜限りの恋」とか「(思いがけず)一夜を共にする」といった意味合い。最近よく台湾ドラマで耳にするような気がするけど、この二人も「一夜情」から始まった恋。現実ではあり得なさそうな筋書きもドラマだとなんか運命的な出会いとしてまとまってしまうからすごい。浮気常習犯だった浩洋から親友を守ろうと、敵対心を抱いていたはずが、ハプニングを経て気持ちを持ってかれる、その過程での二人のやりとりに不覚にも胸キュンしまくった。普段からラブコメの胸キュントラップ(と勝手に呼んでいる)をバカにしているのに、まんまとハマる。

ドラマは観客の観たいものをみせるものが必ずしもいいドラマだとは言えないと思っているけど、痒いところを掻いてくれるかのように、そうなってほしいと思っている通りに話が進んでくれると、それはそれでやっぱり気持ちがいい。たまにはそういう作品を観て息抜きにするのもありだ。前半でこれでもかというくらい家族同士が、夫婦同士がすれ違いを重ねる、その歯がゆさが後半でずばずばっと解決されていく、気持のよさ。

この流れでYoutubeにある吳慷仁のインタビュー動画を観ていた。今まで知らなかったが、中学生のころから働き始めて、10代のころにいくつもの仕事を経験したとかで、苦労していたみたいだ。俳優の苦労話を美談にしたいわけではなく、ここ数年、台湾の映画、ドラマ界でもてはやされている、普段見ている映像の中の彼からは想像がつかなかったので、少し驚いた。鳶の仕事をしてて足の裏に釘が刺さったこともあったとか。釘を抜くと血が弧を描いて噴き出したって笑いながら話してた。それから台北でバーテンダーをやって、俳優に。(確か向井理もバーで働いててスカウトされたんじゃなかったか?)今自分が迷いながら仕事を探している身なので、こういう迷う暇もなく働くしかなかったとか、そうこうしている間にいろんなことやってたとかで、おもしろい経歴している人にはとりわけ興味が湧く。さて自分はこれからどうするのだろうか。台湾ドラマばかり観ていていいのだろうか。


Friday, 14 July 2017

看完《花甲男孩轉大人》之後想到自己家人的事

以下原本我想寫電視劇的事情,但後來發現寫出來的都是自己的故事。

我也像阿甲一樣有養我長大的外婆,儘管這幾年我很少回老家看她,她還是一直在乎我,偶爾給我打電話來問我最近好不好,有沒有缺錢,工作會不會太辛苦等等。我非常感謝她這麼多年,我離家已經幾年了也依然不變的對我的愛情。但是坦白地說,有時候不想接她的電話,是因為她除了問我好不好之外,她還跟我說母親的壞話。

我媽和外婆之間,不曉得甚麼時候開始,從誰先開始,總是彼此討厭,甚至外婆說「你媽連一句話都不願跟我聊,也不願讓我吃飯」。我媽也因這件事而受精神上的壓力,加上她長期患有憂鬱症,所以我知道事實不一定是外婆說的那樣。她們母女之間似乎有解不了的糾結,其中也一定有一些誤會,才變成現在這樣。其實我和母親的關係也不好,但至少關於這件她們之間的事,我很同情我媽。不過我也沒辦法解決她們之間的問題,又不想每次每次都聽外婆電話裡說的真真假假罵人話。簡直說我根本不想理他們。

因此,這幾年我都不願意給外婆打電話或者去找她。而現在,我把這部電視劇看完之後,想到我也早晚得面對這種離別,不管外婆和母親的關係如何,我是否該到時之前好好向外婆表達愛意和感謝,同時好好處理家庭的問題。我很羨慕阿甲的家庭。他們互相有矛盾,但確實也有愛情的存在,我們在戲劇裡能感受到這種愛,所以不禁流著眼淚感動。可是我覺得不一定是每個家庭能夠像他們一樣成功打破彼此間的牆壁,去理解對方,迎接圓滿的結局。

我總是從家人的問題逃避的。我也有點像阿亮一樣,總有被家人逼演模範生的感覺。我在學校的成績好,老師的評價也不錯,但我心裡想這根本不是自己想要的自己,而是家人希望的女兒的樣子。小時候對我來說,我唸書唸好是為了獲得母親的承認。可是離家以後我再也不想回應家人對我的期待,反而有時候傻傻地想,我工作越不順利越好,我這輩子沒出息就好,這樣才能讓他們失望,很爽。(我知道我這樣想的不對,這是我偶爾遇到困難或失敗成灰心沮喪的時候才想的。)總之,我認為家人對我的嚴格要求和被母親控制的童年時期的經驗影響到我的個性,讓我變成常常不知道自己想要做甚麼,不能決定自己的未來,很猶豫下決心的人。

這種想法到底對不對?我其實同時認為,把家庭環境拿來講自己的個性、趨向怎樣,是有點不成熟,缺乏對自己人生的責任感的舉止。精神上脆弱的部分,當然是受過多少有一點家庭環境的影響而被形成的,但或者改變或者不改變這些自己的缺點,是無法靠別人,只能靠自己來搞清楚。在我心裡,這兩種想法都還留著,這就證明我也還轉不了大人。

以上寫的感覺跟那部電視劇幾乎沒有關係。不過我想到,我喜歡看台灣的電視劇,也許是因為在其中能享受到自己沒能得到的家庭溫暖、父母的愛情、孩子對父母的信任。

盧廣仲の出演作、《花甲男孩轉大人》を観た

盧廣仲も出演したドラマ《花甲男孩轉大人》をネットで全話観ました。ほぼ台湾語のセリフで、台湾語聴きながら中文字幕を追いかけるのに必死で耳も目も忙しかった。

ざっくりあらすじ。

一家のおばあちゃんが危篤状態になったことをきっかけに、5人兄妹の子どもや孫たちが実家に戻る。生死の境をさまようおばあちゃんをよそに、遺産相続をめぐってもめる次男と三男。それに辟易していながらも次男の言うなりにしかできない長男。息子を失った悲しみからいつまでも逃れられない四男。いつまでも未婚であることを責められる末っ子の長女。加えて彼らの子ども、つまりおばあちゃんにとっての4人の孫たちも何かとワケありだ。いつまでも大学を卒業できない花甲、家出したまま行方知れずの阿慧、若くして一児のパパで檳榔中毒の花明、優等生として育てられたがデキ婚間際で不審な行動を見せる花亮。

バラエティ豊かな登場人物の、様々な思惑が交差する中、おばあちゃんの死を看取ろうと親族が集まったその懐かしいふるさとの「家」で、彼らはむしろ、それまで目を背けてきた親子の関係や愛する人の心の傷に、向き合うことになる。

人はいつになれば大人になったと言えるのだろう。主人公の花甲は、もう何年も留年し続けて、自分が本当にやりたいことが何なのか定められないまま、流れに抗えず父親の跡を継ごうとする。物語の中で、子どもが大人になるまでのモラトリアムの象徴として描かれているのが彼だ。同じ世代の自分としても、決断を促される時の、あのもやもやとした感覚や、友人が彼に投げかける「神様が言ったからそうするのか?自分はどうなんだ?」といった言葉が痛くめり込んでくるのを感じながら観ていた。

自分の将来を自分で決めて、その決断に責任が持てるようになった時、人は大人になったと言えるのだろうか。自分の愛する人と結婚して家庭を持ち、職を得て働き、見かけにはれっきとした「大人」と言えるかも知れない。でもいつの間にか、自身の成功のことしか考えず、自らに非はないと信じ、周りの人間を思いやれない傲慢な人間になっていないだろうか。あるいは、過去の辛い記憶や後悔の中に己を閉じ込め、未来に目を向ける勇気を持てない臆病者になっていないだろうか。そうした人たちのことを、胸を張って「大人」だと呼ぶことができるだろうか。

ドラマの登場人物を見ていると、花甲よりもはるか年上の彼らが、大人どころかひどく情けない人間に映ることがある。「大人」というのは、蛹が蝶になるように、ある瞬間からそうなって二度と元には戻らないというよりも、一時的な状態のこと表す言葉に近いのだろう。人は常に大人と子どもを両極とするグラデーションの中で生きていくのかもしれない。

このドラマは花甲をはじめとする若い世代の成長物語でもあり、彼をとりまく年長者たちが生き方を再び見直し、模索する物語でもある。それぞれの人物の物語を最終的にちゃんと回収しようとしているあたり、脚本も演出もスゲ〜な〜と思いながら見ていた。それに、盧廣仲が俳優やるなんて大丈夫かよ?!と心配したものだが、意外にも自然体の演技が程よく、見ていて違和感なく鄭花甲という人物を受け入れることができた。それも監督の腕なのかしら、と思ったり、逆に普段から俳優をやりなれていない彼だからこそ、鄭花甲という純粋で善良な、愛嬌のあるおばあちゃん子を演じることができたのかなとも。とはいえ、」彼が最も才能を発揮しているのはやはり、挿入歌やBGMの部分だな。

台湾語で郷土もののドラマというと、アクが強かったり演技が大袈裟だったりドロドロしすぎてたりして、日本語ネイティブの私からするといつもあんまり観る気が起きないし続かない。でもこのドラマは観やすかったです。これを機に台湾語の勉強にも力を入れたい。

Wednesday, 31 May 2017

李千娜という歌手/女優、そしてChloe

先日、吳慷仁のことを書いたのだが、一つ書き忘れたことを思い出した。彼の出演作で「迷徒-Chloe-」(2016年、監督:曾敬懿)というドラマも結構おもしろかった。主演は最近話題になった「通靈少女」にも出演、主題歌を歌っていた李千娜。さらに劉以豪も登場。吳慷仁は李千娜演じるChloeの昔の恋人役。

番組プロデューサーであるChloeはバンドマンのRex(劉以豪)の演奏に惚れ込み、彼を起用してミュージシャンの生き方に迫る音楽番組を製作しようとする。しかし上司は名もない彼を取り上げることに反対。話題性を理由に有名なピアニスト・汪士棋(吳慷仁)を呼び、Rexと共演させることに。番組制作の過程で、RexとChloeは互いに好意を抱くようになるが、一方でChloeは汪士棋との間に過去のわだかまりを抱えたまま。それは次第にRexとの関係、さらに番組の進行自体にも支障をきたし始める。Chloeの心には罪にも似た重たい過去の記憶がのしかかっていた…

中国語で「第三者」とか「小三」というと、“浮気相手”やカップル、夫婦の間に割って入ろうとする“邪魔者”的な立ち位置の人を指す。Chloeと汪士棋が付き合っていた頃、汪には実は妻と子供がいた。奥さんから見ればChloeは「小三」だったわけだ。夫から別れを切り出された時、妻は憔悴して精神を病み、娘を残して自殺してしまう。Chloeはそのことで悔やみ、自分を責め続け、汪との関係も断ち切った。にも関わらず!未練タラタラの汪が番組に関わることになり、まだ気がある様子で絡んでくるし、Chloeはまだ癒えていない傷口に塩を塗られるような思い。そのせいでRexとのコミュニケーションもうまくいかない。

つまりは、不倫をしてその行為によって人を殺してしまったという罪の意識、そのような行為をした自分にはもはや愛情を求める資格などないという臆病な思い込み(正確には、おそらくそう自分に言い聞かせることで、罪の重さを軽くしようとしている)に苛まれて道を見失っている(「迷徒」)女性Chloeの物語だ。そしてそんな彼女が過去を乗り越えることができるのか、どんな答えを出すのか、というのが最終的な見どころになってくる。

そんなChloeを演じる李千娜の経歴が興味深い。父親はドラマー、母親は歌手、祖母は歌仔戲、叔父は布袋戲をやっている芸能一家に生まれる。両親の離婚後、父と共に南部に移り住み、父は南投で歌劇団をしていた(娘の名前を歌劇団の名前にしたらしく、李千娜は子供のころ恥ずかしくて仕方がなかったとのこと)。素質があったみたいだが、テレビのコンテスト形式の歌番組に素人として参加して、そこから歌手デビューを果たす。その後は映画『茱麗葉Juliets』に出演したことで、歌手としてよりも女優として一躍有名になる。今では歌手も女優もこなす。

「歌手である私は李千娜自身で、私の人生の物語を語っています。俳優である私は違う人生を体験していて、他人の人生の物語を演じているんです。」(元記事リンク)

李千娜の曲を聴いていると、昔のも最近のも、浮気とか友達に恋人を取られるとか、「小三」に関わる歌詞が多いような気がする。下世話なことだが、過去に恋人に裏切られたとか、とりわけ彼女の生き方や考え方を形づける大きな経験があったのかなと憶測してしまう。あるいはレコード会社の売り出し方?

MVに吳慷仁が出ている曲《說實話(本当のこと)》
このMVのストーリーも同様で、恋人と友人が浮気していたことを知って「本当のことを話すのがそんなに難しい?」と恋人に詰め寄るシーンがある。自分にも他人にも正直でありたいという彼女の切実な思いに溢れた曲だ。(個人的には恋をしてしまえば正直もへったくれもないという考え方ですが。)

Monday, 29 May 2017

台湾ドラマ『一把青』の吳慷仁が好きでして。

ここ数カ月の間に観た・観てる台湾ドラマ。

・命中注定我愛你(ハートに命中!100%)
・醉後決定愛上你(最後は君を好きになる)
・金大花的華麗冒險(カノジョの恋の秘密)
・那一年的幸福時光
・麻酔風暴
・一把青
・極品絕配
・我的愛情不平凡

日本語版も出てる上の三作のように、ひと昔前の台湾ドラマは全30話とかあって物語の起伏が無駄に多い(そうしないと30話も続けられない)。運命的な出会いから、主人公の二人の距離が縮まってくっつきそう~~ってなったところでタイミングよく新キャラが登場して邪魔をするし、家世背景(家柄)の違いが原因で家族に反対されたりするし。この感じは遠からず近からず日本の昼ドラのようでもあるし、少女漫画的な要素もあると思ってたけど、「日本の少女漫画の要素+韓流ドラマの要素の合わせ技」と言ってる人がいてまさにそうだなナルホドと思った。とはいえ、こういう“あるある”要素はあくまでいわゆる「アイドルドラマ」と言われるような、ラブコメ路線のドラマに当てはまるもので、「一把青」や「麻酔風暴」のようなシリアスなジャンルも見てみれば台湾のドラマに対する通り一辺倒なイメージががらっと変わることもある。

「一把青(英題:A Touch of Green)」(脚本:黃世鳴、監督:曹瑞原)は白先勇という著名な作家が書いた小説を元に制作された歴史ドラマ(たぶん日本の大河ドラマに近い感じ)。日中戦争で国民党軍の空軍パイロットとして戦かった男たちと、その帰りを地上で待ち続けた妻や恋人、娘といった女たちの物語。日中戦争から国共内戦へ、そして台湾への逃避、新しい土地での暮らしと、激動の時代を跨いで物語が展開される。台湾ではいわゆる外省人と呼ばれる、中国大陸にルーツのある人々の物語だ。その中でも日中戦争時に国民党軍の軍人として活躍した人とその家族の歴史にスポットが当てられている。台湾の近現代史、特に第二次世界大戦後から現在にかけてというと、どうしても二・二八事件を主とする省籍矛盾、その後の白色テロといった台湾人(本省人)の抑圧された歴史が、本省人の視点から語られることが多い。その一方で、外省人に対してひとまとめに“加害者”のレッテルが貼られて、実際に生きてきた人々の多様な経験が見過ごされることもしばしばあるようだ。

以前、元軍人の中には、共産党との戦いで負けて命からがら台湾に逃げ延びたというのに、政府からはもまともな補償もなく、家族も失い身寄りのない土地で孤独な生活を余儀なくされた人もいるのだという話を聞いたことがあった。二・二八事件や白色テロでも、被害に遭ったのは本省人だけに限らない。ドラマの中にも、楊一展演じる退役軍人の江偉成にスパイの嫌疑がかけられ、拷問を受けるというシーンがある。華々しい空軍隊長からスパイ容疑者への転落に、江は憔悴しきってしまう。大衆向けのドラマでこういった歴史をテーマに作品が作られ、共有されるというのは、とても意味のある事なんだろうと思う。以前は埋もれていたかもしれない、色んな小さな物語を、バックグラウンドを問わず自分たちの住む土地にまつわる歴史として捉えなおし、組み立てていく作業が日々繰り返されているようで、それはとても健康的なことだと思える。むしろ、現在の台湾社会、特に自分と同世代の若い人たちを眺めていると、意図的に省籍の話を持ち出してやいのやいの言うのはもはや時代遅れ、ナンセンスだという感じがして否めない。

台湾の歴史について、少し事前知識がないと話についていけないかもしれないけど、映像も脚本も手の込んだものだから、台湾好きには是非観てほしい作品だった。友人に勧めたいが、いまのところ日本語字幕版は出てないみたいだ。

正直に言うと、「一把青」を観始めてから4話目あたりでもう続きを観るのがつらくなってしまった。それもこれも物語が悲劇に向かう臭いしかしなかったからだ。当たり前だが、毎週末に1話ずつとか、毎日1話ずつ観るのが正解で、私のようにネット上で一気見などしてはいけない。涙腺が崩壊する。それなのにどうしても観たかったのは、吳慷仁という俳優が出演していたため。台湾で現在放送中のドラマ「極品絕配」にも出演している。「一把青」では、吳慷仁の飄々としたどこか掴みどころのない雰囲気が郭軫という役にマッチしていた。本人は当初、イメージする郭軫の体型や特徴などからして、その役に自分は相応しくないと考えていたらしい。
「小説から想像した郭軫は、身長182cm以上、胸囲42インチ、腰回り30インチ、容姿端麗で瀟洒、飛行技術が高く、その上自信がある。自分にはそんな素質がないと思ったが、曹監督の確信があって演じることに。」(※元記事リンク)
こちらからすれば、いやいやあなたも十分背が高くてハンサムですよと言いたくなるが。彼はこの役で金鐘獎の主演男優賞を受賞することになったのだから、監督の目に狂いはなかったってことだろう。

同じく吳慷仁出演の「麻酔風暴」は近々台湾で第2弾が放送開始予定とのこと。病院を舞台にした医療サスペンスドラマ。不眠症を患う主人公の麻酔科医師が医療ミスで訴えられるが、同僚や上司の医師、さらには手術により亡くなった患者の遺族に不可解な言動が見受けられ、患者の担当をしていた医療保険セールスマンとともに主人公が真実を探り始める。その一方で、カウンセラーの支えがありつつ、不眠症の原因である過去の記憶とも向き合うことになる。といったあらすじ。全6話くらいの短い話だったけど実際これくらいがちょうどいい!退屈せず、展開もおもしろく。吳慷仁はセールスマン役で、これがもう、ネタバレになるとあれだから何も言えないけど、いい演技をしている(ほんとに日本語字幕版出てほしい)。主演は黃健瑋で、彼のインタビュー記事を翻訳したのがあるので参考までに。

脚本は黃建銘、王卉竺というお二方、監督は蕭力修。蕭監督と言えば北村豊晴監督と一緒に撮った映画『おばあちゃんの夢中恋人(阿嬤的夢中情人)』。以前、六本木の映画館で鑑賞したのだが、登場するおばあちゃんの若かりし頃、1960年代の台湾映画や台湾語歌謡が流れてきてテンション上がる上がる。最近のドラマだとヤクザの親分役でお馴染みの龍劭華という俳優が、おばあちゃんを真摯に愛するおじいちゃんの役柄で登場する。認知症の妻との思い出を語るというストーリーからすると『君に読む物語』に似ていた。こういうのはもはや定番なのかな。

最近はもっぱら金曜放送の「極品絕配(英題:The Perfect Match)」を楽しみにしている。吳慷仁出演の上記二作のドラマとは違ってよくあるラブコメものなので気楽に観れる。三立テレビの番組だが、三立は太っ腹で、ネット上で現在放送中の番組だけでなく、過去に放送したものも無料で公開している(全てではないです)。Vidolというサイトで無料登録すれば観れる。ところで、以前何気なく「愛上哥們(アニキに恋して)」のタイトルを和訳して記事に書いてたら日本の配給会社から使いたいと連絡がきたので、それ以来ドラマのタイトルを思案するのが楽しみの一つになっている。「極品絕配」も考えてみたけど、この中国語独特の言い回し、単語を二つくっつけて成語っぽくしたやつは手強い。「恋する二人の絶品レシピ」(長いな)、「二人は絶品コンビ」(なんかださい)、原題すっとばしていいなら「恋はスパイスの香り」にしたい(カレー料理人の話だから)。もはや「パーフェクト・マッチ」でいいんじゃないかな。でも日本語字幕化はされなさそうな予感。

Sunday, 16 April 2017

台北と風邪っぴき迷子

三日前から台湾に旅行に来ており、留学を終えて日本に帰ってからちょうど三年ぶりになるので、それはそれはとても楽しみにしていた旅行だった。ところが、出発の朝から身体に不穏な不快感があって、飛行機では悪寒まで。淡水の宿に到着してから友人が老街と夜市を連れて歩いてくれたのだが、食欲はそこそこあるものの、身体がやけにだるく頭が重い。結論から言うと、どうやら風邪、あるいは友人のインフルが移っていたようである。そしていま、台北のゲストハウスで部屋に閉じこもり熱が下がるのをただただ待っている。ああ、私の愛しい魯肉飯、豆花、牛肉麵、割包、珍珠奶茶...とにかく熱が下がらず歩いて回れないので、食べたいもの、懐かしい場所、行ってみたいと思ってた場所、どこにも行けていない、食べれていない。このまま帰国になるのは悔しいので今はとにかく寝る寝る寝る寝る。

しかしだ、心優しい友人に恵まれ、彼はなんとオススメの水餃子と酸辣湯をわざわざ宿まで買って持って来てくれると言う。他人太好了吧。どこにいても、親切な友人がいればこれほど心強いものはない。

朝よりも随分と身体が軽くなってきたので、少しずつ頭も働くようになってきた。これからのことについて考えようとしてみる。ベッドから起き上がり、窓の外をじっと見つめていると、ここが果たして住み慣れたアパートの一室なのか、それとも異国の仮住まいであるのか、感覚があやふやになってくる。今いる場所がそこまで自分とかけ離れた土地とは思えず、遠く離れた我が家の寝室を思い浮かべても、それほど恋しさがこみ上げない。身体は弱っているが、決してこの場所を拒絶してはいないし、むしろ当たり前のものとして受け入れている。

東京も台北も、自分にとってはあまり変わりない場所かもしれない。どこにいても、自分のやりたいこと、目的が定まっていれば動きは軽いし、何もなければ、ただ時間が過ぎて行くだけ。私に必要なのは、目的を定めることだろうか?

Friday, 10 February 2017

2月5日、横浜にて。

先日、友人夫婦の結婚式に参加した。

この二人が結婚式をするとは、少し予想外だったのだが、察するに両家ご両親からのプレッシャーがあったのだろう。でもそれだけでもないようで、新郎は最後の短いスピーチで、結婚式を準備する過程で新郎自身が見出した“結婚式をする理由”を語ってくれた。自分たち二人には、これから先どんな人生が待っているか分からない。幸多きことを望むは当然だが、二人のうちどちらかが―特に新郎が思うところでは自分自身が―もう一人を残して死んでしまうようなことがあるかもしれない。そうなってしまったときに、残された人を支えてくれる親しい友人たちの存在が、必要不可欠になるだろうと。だから、二人に何が起きたとしても、どうか末永く見守っていてほしいし、困ったときには、ここにいる皆とお互い救いの手を差し出しあいたいと、この場を借りて伝えたいのだと。

こうやって書いてみると、私の貧相な文章力ではその場でスピーチを聞いた時の感動が伝わり切らないと思うのだが、私は胸を打たれてしまい。気づいたら涙がちょちょぎれていた。そんなことを言いそうにない人だったから余計かもしれないが、私自身もそこで気づいたことがあったのだ。大切な友人の結婚式というのは、彼ら二人だけのものではないのだなということ。その結婚式は、私と彼らの結婚式でもあったのである。かなり語弊のある言い方をしてしまったのだが、もう、あの場にいた人たちは、みんなあの夫婦の人生に良くも悪くも巻き込まれているのだ。二人はあの場で夫婦の契りを交わし、私たちとあの二人は、友情の契りを交わした。そんな気がしたのだった。

損得勘定なしで付き合える友人というのは得難く、いれば幸福だ。普段から見返りを求めて何かをするわけではないが、その時々で、困っていれば助けたいと思うし、困っていたら助けてくれるような。そして時折、楽しいことを分かち合えるような。恐縮ながら、あの日私は、そんな友愛に満ちた関係を一つ結ぶことができたように思えて、改めて祝福と感動を覚えたのでした。

Friday, 13 January 2017

「引揚港」としての故郷の歴史に触れつつ

年末年始は相変わらず風のように過ぎ去った。大みそかの数日前からうちに泊まりに来ていた友人とちょっとした口喧嘩をして拗ねているうちに2017年と相成り、結局一年の振り返りや来年の抱負などといった話はせずじまい。そして世間とは逆行するかのように正月3日から実家に帰省し、6日まで居座る。

家族仲がいいわけではなく、実家の居心地もすこぶる悪いのであるが、今回はどうしても帰省しておきたい理由があった。戦後の引揚と故郷田辺の文里港に関する何かしらの資料を集めておきたかったのである。結論から言って、地元の図書館で調べられる以上のものは取り立てて何も得られなかった(当時のことを知る人を見つけて話を聞くなどまではできなかった)。しかし、市がまとめて出版していた元復員兵の回想記集や、引揚事業に関する資料が得られて、特に回想文の中には読み物としておもしろいものがあり、わざわざ飛行機に電車を乗り継いで帰った甲斐があった。

今でも地元の田辺市立図書館で購入できるのが、引揚50周年を記念してまとめられた『引揚港田辺』という書籍。すでに販売されてはいないが、図書館で複写できたのが40周年記念の際に編纂された『引揚港田辺(海外引揚四十周年記念)』。この中でも特に興味のあった台湾からの引揚者の回想文の部分と、そのほかに故郷の土地を目前にして引揚船内で起きた“リンチ”について詳細に描写していた奥村明氏の文章を複写申請した。あとで調べてみると、この奥村さんは『セレベス戦記』という自身の従軍記録を出版していた。どおりで、引揚記念書籍の中の回想記もこなれた文章で、まるで小説を読んでいるかのような心地がしたのだ。詳しい来歴は分からないが、戦前は物書きの筋の人であったりして?

回想記の多くが、上陸後の検疫でしらみ対策のDDTを「ぶっかけられた」ことや、田辺の地元民の温かい歓迎に涙を流したこと等々、どちらかというとほのぼのとしてしまうようなエピソードを徒然と書いてあるのに対して、奥村さんのは少し違っていた。同じように「祖国」を見ることのできた感慨のようなものや、帰ってこられなかった戦友たちを思う悔しみを語る一方で、敗戦してなお私欲に走る軍上層部や、兵士の任を解かれたはずの復員兵たちの間に影を落とす軍隊の悪質な構造を、冷静にまなざし、指摘しようとしている。以下、少し長いがリンチについての描写を引用。

「…しかし、平和で美しい紀伊半島を目前にした田辺港は、南方各地よりの復員船がひしめいており、下船は順番を待って、今日、明日は船中で過ごさなければならぬという。すぐ下船できると思っていた私たちはがっかりした。気ははやるばかりで、何ともしようがない。時間は錆びついたように長く、耐えがたく鬱血した気持であった。/そのあせりと無聊に、人心の亀裂が生じたのにちがいない。リンチ事件がおこったのは、その夜のことである。」

「テントのそとで、また、騒ぎが起こった。「岩田兵曹長! マカッサルへ上陸したときのこと、おぼえているか。よくも、おれたちをひどい目にあわしやがったな。貴様! この野郎」 罵声と殴打の音。……「ざまァみやがれ!」そんな捨てゼリフがきこえ、あとは静かになった。ふくろだたきにされた兵曹長が濡れた鉄板の上にのびている姿を想像し、(たぶん鬼兵曹長だったんだろう。相当恨まれていたらしいな)と、私は他人ごとのように考えていた。/遠くに近くに、ざわめきがきこえた。罵声、肉を打つ鈍いひびき、うめき声。――私は頭をもたげた。これはいけない。あちらでも、こちらでもリンチがはじまっている。中尉を皮切りに、リンチの連鎖反応をおこしたのか。私は関係ない。…」

筆者・奥村さんも少尉であったがために結局リンチの標的にされたのだが、この事件の原因は戦争中の軍隊における「私的制裁の悪習」とそれを暗黙裡に奨励する上層部や、下級者に強いられた上級者に対する絶対的服従精神の根拠である軍人勅諭にあると語る。

「戦争が終わり、命令系統の階級をなくしたかつての上官がドレイ的な境遇に耐えてきた下級兵士の報復をうけたのも、当然のことであろう。だが、一部扇動者の発作的なリンチ事件が、母国の山河を前に、燎原の火のごとくひろがる形勢は、なさけないことだ。それは爆発であり、狂気であり、無意味な破壊に通じるだけのものであった。わるいのは、権力におごって兵士たちをドレイあつかいした上官だけではない。国をあげての富国強兵の教育方法そのものに陥穽があった。前近代的な日本の体制そのもののありかたを、あらためて批判しなければならないであろう。私はすぎゆく暴風を待つかのように、じっと横たわっていた。両耳をふさいで、耐えていた。」

復員兵の身体に染み込んでいる暴力の記憶、それが、ふとしたことで爆発する。なんとなく、『仁義なき戦い』の冒頭で復員兵だった広能昌三らが広島のバラック立ち並ぶ闇市で殴り合うシーンが連想された。暴力の温床、戦前と戦後の連続性。

その後、一夜明けてリンチ騒ぎなどなかったかのように皆ケロッとした顔で肩を並べて上陸を喜んだそうだ。さらに、無事に復員はすんだが、上陸時に軍用物として運び出すよう命令されたものの中にセレベス(セレベスは植民時時代の呼び名で、現在のインドネシア・スラウェシ島。)から積み込んだコーヒー豆の詰められた袋があり、それがなんと闇市で売りさばかれ、船長が取り調べを受けることになったとか。これに関して奥村氏、「悪党の片棒をかつがされていた」と言って怒りをあらわにしている。

上述のリンチについては、同回想文集の中で竹本節三氏も書いている。竹本さんの回想では、上陸後も文里港付近の松林の陰で将校たちが被害を受けたようである。

「下級の兵たちは、将校にたいして、根の深い宿怨をもっていた。…ニューギニアで、生きるか死ぬかの戦時生活をしていたときのことに関わってくる。将校とくに上級将校たちが軍制上の権限を、無拘束な私権に転化させて、いかに下級兵を犠牲にして恬然としていたか、そんな事例が枚挙にいとまないほど多かったことを、私はよく知っている。…乗船中に、以前から心中に鬱屈していたこの問題が、メタンガスが爆発的な張力をつよめてくるように、急に膨張してきた。上陸し、解散してしまえば、この問題を解決すべき機会はまったくなくなってしまう。…略」
ネットでちらっと検索してもこの類の話は複数ヒットするので、復員船にめずらしいことではなかったのだろうが、これまで戦争関連の歴史書物、小説とか手記とかあまり読んでこなかったので、衝撃的な話だった。このほかにもまだ資料を読み込めていないので、時間を見つけてまとめようと思う。

複写申請するとき、普段はこんなド田舎の図書館で古い書籍の複写を何十枚も頼まれることはないのだろうが、一行、また一行、さらには二枚目の複写申請用紙へと必要なページ番号を書き入れていく私の様子を、司書の方が不思議そうに見ていることに気が付いた。複写を終えて私に印刷物を手渡してくれたのちも、その本にわざわざ東京から訪れて複写するほど価値のあることが書かれているのかと気になったのだろう、同僚と思しき司書さんと二人してページをめくりめくりひそひそと話をしていた。京都の舞鶴や佐世保などとくると引揚港として有名なのだろうが、田辺は意外と盲点であるようだ。地元の人ですら、その記憶をとどめている人も、歴史として知っている人も少ないように思う。

で、私はその貴重な?回想記集と当時の引揚援護局に関する資料を手に入れたのだが、手に入れてそれを読む以上のことができておらず、ここからなにか発展させることができるかどうかは不明だ。恋人の祖母は戦前台湾に移住しており、戦後の引揚時に帰り着いたのが田辺の文里港であったのだが、彼女の帰国に直接関わるような記録は見つけられなかった。昭和21年2月20日から6月24日までの約5カ月の間に輸送船63隻が入港したとのことで、そのうちどの船に恋人の祖母が乗っていたのかまでは残念ながら調べがつかない。昔の文里港付近には記念碑が建てられてあり、今回は見に行けなかったのが心残り。

引揚50周年の書籍が平成8年に出版されたのち、引揚60周年であるはずの平成18年(2006年)には何もなかったのだろうか。来年になれば引揚70周年だ。当時のことを語れる人はますますいなくなる。感傷的な気持ちになってしまうのは避けがたい。

今年もどんな一年になるものか、さっぱり見当がつかないが、好奇心を忘れず、気になることをおざなりにせず調べ、学びの多い一年にできればと思う次第です。なんでもメモを取る癖を。そして研究者気取りもたまには役に立つことがあるだろうし、コツコツといろんな資料を集めよう。

Monday, 21 November 2016

映画『湾生回家』はまだ観てないですがトークイベントに行ってきました。

先日、虎ノ門の台湾文化センターで映画『湾生回家』のトークイベントがあって、参加してきた。てっきり作品上映もされるもんだと思って前日の公開初日には映画館に行かなかったのだが、上映はなかったのでひどく後悔した。早とちりはよくない。

ジャーナリストの野島剛さんがコーディネーターを務め、映画の元となった書籍『灣生回家』を執筆するとともに多くの「湾生」たちを追いかけてきた田中実加さんと、映画にも登場する湾生のお二方が登壇し、貴重なお話を聞かせてくださった。

実は「湾生」という言葉を知る前から、私は台湾で生まれ育った日本人の歴史に関心を持っていたのだが、それには私の生まれ故郷である紀伊田辺と、いまお付き合いをしている恋人の存在が関係している。紀伊田辺の市街地からは少し離れた海岸寄りの田辺湾を臨む一帯に文里という名の地区があるが、そこには文里港と呼ばれる港がある。幼い頃の記憶では、船着場というよりも、おいやんら(田辺弁で「おじさんたち」の意)が釣りを楽しむ波止場という印象が強かったが、ここは古くから海の玄関口として利用されてきた場所でもあった。さらに文里港は、第二次世界大戦後に戦前の日本の植民地や、戦地からの引き揚げ者たちを乗せた船を迎え入れた港でもある。つまり、植民地であった台湾からの引き揚げ者の多くがこの文里港に辿り着き、ふるさとの土地として最初に足を踏み入れたのが紀伊田辺であったのだ。

この歴史を知ったのはつい二、三年前のことだ。私の恋人は広島出身で、地元には両親と祖父母がご健在だが、母方のおばあさんが実は台湾からの引き揚げ者だった。彼女もまた、田辺の文里港に降り立った引き揚げ者の一人だったのである。不思議な縁に心を震わせながらも、私は彼女の背後にいる数百万人の引き揚げ者たちの姿に想いを馳せた。彼ら、彼女らの目に映る田辺はどのようであったのだろう。どのような気持ちで、あの場所に降り立ったのだろう。そして田辺の人たちはどのように引き揚げ者たちを迎え入れたのだろう。仕事の忙しさを言い訳に深く調査することもなくうやむやにしていたのだが、今回トークイベントで湾生のお二人の話を聞くうちに、当時の田辺のことや、恋人のおばあさんのこと、あるいは家族史のようなものについて、ますます知りたいと思うようになった。

おばあさんは現在寝たきりで会話も難しいらしく、孫の恋人とはいえ見ず知らずの若造が病室までお邪魔するのは気がひける。とはいえ、歴史の生き証人から話を聞く機会は、今を逃せばもう二度とないかもしれない。ご両親に丁重にお願いしてみるのもありかもしれない。以前、恋人のお母さんづてで聞いた話では、おばあさんは生まれは日本で、幼少期に両親とともに台湾に渡ったそうだ。おばあさんの父親にあたる人が台湾鉄道の職員で、台中駅と周辺の駅に務めて何度か引っ越しをしたが、終戦時に住んでいたのは台中の緑川付近で、おばあさんは当時の台中第一高等女学校に在籍していた。妹さんは台湾生まれのまさに「湾生」である。妹さんが生まれた時、住んでいた場所の近くに「香山」という名の山があり、それにちなんで香さんと名付けられたそうだ。台中に住んでいた頃の家は立派だったそうで、玄関の門には大きなパパイヤの木が両側に一本ずつそびえていたとのこと。今回、トークイベントで話を聞いたお二人は台北や花蓮に住んでいたため、おばあさんのお話から想像するものとはまた違った植民地台湾での日本人の当時の暮らしぶりが浮かび上がるようで、非常に興味深かった。花蓮は開拓移民が多く、お金も住むところも何もない状態で、荒れ果てた土地をゼロから耕し、先住民との衝突も自分たちの力だけで解決しなければならなかった。様々な苦労を乗り越えて築き上げた暮らし、財産、人間関係をすべて手放して引き揚げなければならなかった、その悲しみは生半可なものではなかっただろうと想像する。

「湾生」の物語は、大きな歴史からはこぼれ落ち、世間から忘れ去られがちな小さな歴史の代表例だ。植民地主義の善悪に関する批判を超えて、語り継がねばならない歴史。また、今回のトークイベント内容のキーワードでもあった「ふるさと」という概念、湾生にとっての「ふるさと」はどこか?という問いについて、参加者たちの関心が高かったように思う。アイデンティティと結びつく問いだ。登壇していたお二人はこれまでの人生で何度も悩まれてきたことだろう。そんなデリケートでプライベートな問いをあのような公の場でたずねるというのは気がひけるものだが、お二人は堂々と話してくださった。話題性はあるかもしれないが、こういう質問が出るとなんだかナンセンスだなと思う自分もいる。一体、質問者はどんな答えを期待しているのだろうか。「それでもやっぱり私は日本人です」とか「台湾こそ故郷であり、心は台湾人です」とか?私は、小さな歴史、個人の歴史を語り継ぐことは大切だと思っているし、人の心に訴えかけるものがなければ語り継ぐことは難しいとも思う。だからこそ、こんな風にしてドキュメンタリー映画が制作されて、日本でも上映され、多くの人がそれを見て感動して台湾と日本の歴史や大きな歴史に翻弄されて生きてきた人々の存在に目を向ける、という流れができればそれはそれで素晴らしいことだとも思う。がしかし、そのルートのどこかに恣意的なエンタテイメント性があって、私は罪悪感のようなものを拭えずにいる。うまく言えないのだが、私たちはただただ物語だけを消費して感動や涙にして満足しているような。この話だけに言えることではないのだけど、ふとこんなことを考えた。
いずれにせよ、次に地元に帰るときにはゆっくりと資料館などを巡りたいと思う。

Saturday, 1 October 2016

最近観た&そういえば観たな映画メモ

最近観た&そういえば観たな映画メモ


『超高速!参勤交代』
どの役者さんも個性があっていい。ドラマ「相棒」枠の時間帯の雰囲気がした。夜8時くらいからやってる時代劇の感じ。地方の弱小藩・湯長谷藩がたった5日で江戸に参勤せよと無茶振りされる。湯長谷は現在の福島県いわき市のあたり。台詞の一部には3.11の原発事故とそれによる放射能汚染の問題を連想させるものがある。「土とともに生きる」「土を守らねばならない」のような。藩主はその土で百姓が丹精込めて作った大根の漬物が大好物。幕府にもそれを献上するほど。

幕府老中の松平なんちゃらがいわゆる悪代官的な役回りで、とことん悪知恵を働かせて弱小藩の武士たちを困らせる。藩主・内藤なんちゃらは民に慕われ、常に民のことを第一に考える優れた人物。徳川吉宗に向かって、「上に立つものが愚かであれば民が苦しむ」的な言葉をバンっと言い放つところかっこいい。全体としてはもちろんコメディなんだけど、細かな台詞(上述)にちょいちょい引っかかるというか、気になってしまうところがあり、なんとも皮肉めいた感じがする。3.11後、事故の対処に右往左往した政府への批判ととらえることもできるかもしれない。できれば、どんなに汚染された土地だとしても我々はその土地に根付いてそこの土とそこで育つ作物とともに生きねばならんのだ、的なメッセージであってはほしくない。でもまあ、気軽に観る感じの映画だ。


『超高速!参勤交代リターンズ』
やっぱり猿の菊千代かわいい。深田恭子もかわいい。一作目もそうだったけどエンドロールで流れる曲だけはとってつけた感あって残念。二作目の方が立ち回りが多かった。湯長谷藩は結局幕府に利用されてるだけで、それでも何が何でも藩は守り通す、潰されてたまるか、と必死になる人たちを観ていたら、だんだん「そこまでして守る必要もないのでは」というような気持ちになってきてしまった。映画だし、ハッピーエンドになるのは分かっているからそのままでいいんだけど、現実だとしたら、藩を守って死ぬより生き抜く方がいい。私ならそうする。笑うだけ笑っておもしろかったねって言って映画館をあとにすればいいだけの作品のはずが、むやみに深掘りしてしまいそうになる。むだだな。


『俳優 亀岡拓次』
安田顕さんほんまいいですよね。ストーリーよりもカメラワークとか、現実と妄想?の継ぎ目のない切り替わり方とかが面白かった。


『シン・ゴジラ』
いろんな人がいろんなところで色々言ってるから自分の感想を書くのは気がすすまないんだけど、私はすごい好きだった。旧作はたぶん小さい頃に観たことあるけど全く覚えてない。モスラはあのなんか双子みたいなのと歌だけ覚えてる。あと家にモスラの卵のおもちゃがあったな。ちなみに私はいろいろあるシン・ゴジラ関連の記事の中でもこの記事とかに同感した。
“現実対虚像”がテーマだったけど、この作品自体がものすごい虚像だったというか、壮大なギャグだったというか。石原さとみが一番の虚像だったんじゃないか?それより台詞が長いし早口だし、ものすごい古い映画を観ているような気持ちにもなった。あと、何も知らずに観たので、エンドロールのキャストの最後の方に「野村萬斎」って出てきて「はっ?えっ?どこに?」ってなった。答えを聞いて劇場で爆笑したのでした。


『ディアスポリス(劇場版)』
ドラマがめちゃくちゃツボでおもしろかったので期待して観に行ったが、ちょっと思っていたのと違った。でもおもしろくなかったわけじゃない。ちょっと面食らった。ドラマは最終的に不法滞在者vs外国人排斥組織っていう構図があって比較的わかりやすく、事件がおきるごとにそれを解決していくサスペンス感覚で観ることもできたんだけど、映画の方は少し違った。ラストの海辺のシーンなんかは特にフィルム・ノワールのような感じがしたし、何がいいとかわるいとか何を守るとかでもなくなっていって、ぐじゃぐじゃに汚くなった人間が虫けらのように殺されていくのをただただ観ているだけのような。

日本の警察が出てくるでもなく、どちらかというとアウトローな日本のヤクザが登場して久保塚と組む。久保塚はどんな悪い事をした奴でも(不利な状況に置かれている外国人なら)殺そうとはしないけど、ヤクザにはそういう信念はどうでもよくて、仲間を殺した奴は殺す。それぞれ自分の道理で生きている。神を信じていたがために命が危うくなり祖国を追われた少年にも宗教の道理があったはずだが、よりどころであった神にすら見放されて(神を信じることができなくなった?)やけっぱちになり人を殺しまくる。なんだろう、そこにはもはやルールもないし、人道みたいなものもないし、でもなぜか友情だけはある…。どう消化したらいいか分からないまま映画を見終えて、相方とはとりあえず「ハマケンよかったね」みたいな会話で〆た。


ディアスポリスに出てくる裏都庁の裏都知事の設定、見た目(白髪のロン毛)が台湾の独立運動家、革命家として著名な史明に重なるなあとずっと思っていたのだがモデルにしたのかどうか真相は分からない。漫画が原作らしいので、漫画家さんに聞いたりしたら分かるのかな。

他にも観てるはずなんだが、すぐにメモしないと忘れる…。

Monday, 26 September 2016

リップヴァンなんちゃらのアレがとてもよかったです

私が映画を好きな理由のひとつは、物語の中へとトリップする感覚がたまらないから。いつまでもその音と映像の世界に浸っていたい、と思わされるような作品があれば、それは私にとっていい映画です。けれどもその世界が“いつの間にか終わっていた”と感じられるようであれば、なおさらいい。

今夜観たのは岩井俊二監督の『リップヴァンウィンクルの花嫁』。岩井作品は他に『花とアリス』しか観てない。『リリィ・シュシュのすべて』とか『Love letter』とかずっと気になってるけどまだだ。ますます観たくなってきた。ふとしたことがきっかけで普通に暮らしていたはずの女の子の人生が狂ってしまう。いままでの生活が足元から崩れ落ちて、何もない世界に放り出される。絶望とか孤独みたいなものしか残っていないと思える状態から、それでも自分の足で立って歩こうとするたくましさ、ってのが、月並みな言い方しかできひんけど、すごく胸に刺さる。でも、こういうときのたくましさとか強さは、それらの言葉が本来人にイメージさせるような激しいものじゃないんよな。柔軟さとか、あるいは攻めじゃなくて受け止める方の強さだったりする。私は『百万円と苦虫女』を思い出したんだけど、いろいろ総括して考えてみると私が感動したり憧れたりする強さやたくましさは、とどまるのではなくて漂い続けること、その姿勢、あるいはそうなることを素直に受け入れること、であるのかなと思えた。

挿入歌、メンデルスゾーンの『歌の翼に』も、とてもいい。私の大好きな曲だ。昔、声楽に通っていたころによく歌った。軽やかで、やわらかい。この曲が観客をあの不思議な洋館へといざなう。そこには花嫁が二人、七海と真白の二人だけの世界、オレンジ色の明かりに照らされながらヴェールをなびかせて踊る。幸せでたまらないと思う。幸せのかたちってもっと自由なんだな。私が思っているよりも。それは男女が結婚することでなくてもいいし、家族に囲まれて暮らすことでなくてもいい。切ない幸せがあってもいいし、それが続いても続かなくってもいい。なんだか私ももっと身軽になりたいな、と思ったりした。

下調べをせずに、とりあえず黒木華と綾野剛が出てるという情報だけで(綾野剛が好きなので)選んだのだが、実は同じ二人が主演してた『シャニダールの花』とごっちゃになってて、「あれ、これいつになったら二人がくっつくの?」と置いてけぼりになりかけたのでした。でもそんなんすぐにどうでもよくなった。Coccoの自然体のような演技もすばらしくて、クラゲの部屋でウエディングドレスを着た二人が横になっているシーンが忘れられない。

ただのべた褒めになってしまった。鑑賞記録だし、まあいっか。
しばらくウエディングドレス着れそうにないし、私も試着と写真撮影だけしに行こうかな…笑 それはそれでたぶん幸せだ。

ボクシング日記:小指がだめです

ここ二ヵ月くらい、実はボクシングの練習を全然できていなかった。というのも、小指を痛めてしまったせいだった。前回の練習の時にマスボクシングをやっていて、相手のパンチを左手で払おうとしたときに小指に激痛が走ったのである。まあそのうち治るやろと思っていたら全然治らず、整形外科に行ったら「捻挫」と診断された。地味だ。地味ながら捻挫は下手すると骨折よりも厄介で治りが悪いらしく、処置は早めにしっかりと、ということで左手の小指と薬指に固定具を添えて包帯でぐるぐる巻きにされた。そうやって一ヵ月過ごしたのちも痛みが残り、ビビっていた私はなかなか練習に参加できなかったのです…。

スポーツに怪我はつきもの。それはよく言われることですが、万年文化部だった私からすればそんなの非日常!!中学生の時に体育の授業でバスケしてて中指骨折したことあるけど、あの時も相当ビビッてしばらくバスケットボール触りたくなかった…そもそもスポーツマンにはそぐわない性格なんだと思う。でも今回は、左手が使えない間に右手だけで練習したりもしたのだから、少しは成長したんじゃなかろうか。そして二日前に久々の両手で練習!!サンドバックを打ちまくってやろう!!と意気込んでいった結果、マスボクシング中に再び小指に激痛が。わからんけど、本気でスポーツやるなら、こういう痛みには耐えてなんぼなんやろうと思われる。私はだめでした。だって痛いもん。小指が。痛いもん。

それにしても、物を掴もうとするたびに痛いので困ります。ボクシングで怪我しないとか不可能に近いと思うので、面白いし楽しいけど、私にはボクササイズくらいがちょうどいいんだろうなと今さらながら気づきました。そう考えると『百円の恋』の主人公はすごいし、演じてる安藤サクラは実際に中学生の時だっけな、ボクシング経験あるらしいし、つまり安藤サクラはすごい!でも最近NHKでやってるドラマ『ママゴト』では彼女を含め出演者の広島弁があまり上手じゃなくて、というか広島弁のセリフに気を取られすぎて観ているこっちも内容を楽しめず、1話まで観てから続けられなかった。『ディアスポリス』の映画にちょい役で出てたやつはよかったけどなあ。ってボクシングから話がそれた。

今後もちょくちょく続けたいけど、私の体が劇的に丈夫にならない限り友人たちの中に混じってやるのは気が引ける。何か適度に体を動かせる機会が欲しいものだ。近所の体育館でやってる卓球に参加するか、前から興味のあるヨガを始めてみるか。そうやって続かなければ意味がないのだよなあ。万年文化部女子のボクシング日記は今後どうなる?!