Monday 27 May 2019

台湾で同性婚合法化に おめでとう

 先日、台湾で同性婚を合法化する法案が可決された。台湾の友人たち、改めておめでとう。このニュースに少しだけ関連して、最近あったこと、考えていたことをとりとめもなく書き残す。

 その日、台湾からの吉報に私は喜んでいた。幸せな気持ちになって、会話でも話題にしてみたんだけど、ある知人と話したときその人が「よかったね、おめでとう、ニュース見たよ」といい、直後に「同性愛者の人らで勝手にやってくれる分にはいいけど、こっちまで巻き込まないでほしい」と言った。一瞬なにを言ってるのか理解できず、というのも矛盾しているように感じたからで、二つのセンテンスを同じ人が言っているとは思えなかった。とりわけ「巻き込まないで」という言葉が一晩中胸につっかえていた。それは少なくとも私には暴力的に聞こえて、言葉の奥に悪意さえ感じとれてしまった。はっきり言って傷ついた。

 ちなみに、私には女性だという自覚があり、恋愛対象は男性で、異性愛者であり、男性と結婚しています。過去に女性に対して恋愛に似た特別な感情を抱いたことがないこともないですが、それを男性を好きになることと全く同じ感情だったとは言い切れません。だから“当事者”かと問い詰められるとそうだと言えない。ただ以前から、同性婚や同性愛というテーマにはとても関心があった。これは私が初めて読んだ台湾小説がレズビアンの視点で恋愛の苦悩を描いた『ある鰐の手記』(邱妙津著/垂水千恵訳)であったこと、それから同性愛者であることを自認する友人がいることと関係があるのだと思う。

 話を戻すと、知人と別れたあとももやもやが続いたので、「巻き込まないでほしい」ってどういうことなのか?と深く突っ込まなかったことを少し後悔した。夫にこの話をしてみたところ、それはデモとかの抗議活動のこと言ってるのではないかという意見だった。例えばプライドパレードのせいで道が混雑して困ったとか、シュプレヒコールがうるさいとか。仮にそうだとして、つまり噛み砕くと「同性愛者が愛し合ったり、結婚できるようになるのはいいこと、だけど権利を主張する方法をもう少し工夫して、他の人に迷惑かけないようにしてくれると嬉しい」みたいなことだったのだろうか。だとしてもそこから「巻き込まないで」という言葉に至るとは思えず、そもそも誰にも全く迷惑をかけずに何かをやれってめちゃくちゃ難しいことなのに軽く言うよな、つーかデモとか抗議とかむしろ周囲を巻き込んでなんぼのもんでは、と感じる節もあり…今でもやっぱりどこか引っかかっています。

 たぶん数年前なら、学生のころなら、私はその場で突っ込んで聞いていたと思う。そうしなくなった理由には、意見がぶつかるのが面倒だし、考えは人それぞれ、最終的には分かり合えないこともあるというネガティブな諦めの他に、「余計なお世話だよ」「言われなくても勝手にやるよ」と心の中で中指を立てて済まそうとするポジティブな潔さみたいなのがある。ただし、そうやって済ませるには、私自身や話に関わる人たちの権利が保障され、差別されず、心身ともに安全でいられることなどが前提にないと難しい。今回の場合は、法律上で同性婚が認められた台湾で考えれば中指を立てて済ますこともできないこともないけど、日本の現状を考えたときに「巻き込まないでほしい」という言葉に対してはただただやるせなさが残る。(あと、今回通った法律だと、台湾人と外国人のカップルの場合、外国人側が属する国の法律で同性婚がNGだったら結婚できないといった問題も残っている)

 もやもやしつつ、台湾の詩人・鴻鴻さんが同性婚合法化の直前にFBにあげてた<同志>という詩を読んでた。2016年くらいに書かれたもののよう、最後の方にこうあった。

  けれど口を開く前に
  彼らはあなたが間違っていると言った
  ならば間違っていることにしよう
  地球だってもともと傾いているのだし
  でなければ四季も訪れない
  私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
  あの正しい人たちは
  自らの想像上の地獄で生かしてやろう
  彼らはそれを天国と呼ぶ

 台湾ではキリスト教信者で同性婚に強く反対する団体があって、詩の中の「彼ら」「正しい人たち」というのはその人たちを指しているのだと思う。「あなた」は同性愛者、あとに「私たち」というのが出てきてなんだか“当事者”の広がりを感じる。タイトルの「同志」は、同性愛について語る場面では「同性愛者」と訳されることが一般的だが、元々は中華圏とくに中国共産主義思想の下で思想を同じくする仲間に対する呼びかけとして用いられてきた背景がある。私はこの詩を読んで、単純に同性愛者という意味よりかは、読んで字のまま「志を同じくする者」という、より広い意味での「同志」に対して呼びかけているように読めた。もちろん共産主義者という意味でもない。
 
 地獄を地獄とも知らず天国と呼んでいるようなあいつらのことは放っておこう、という風刺は、場合によっては対話することを諦めるような、私が知人に対して抱いたようなネガティヴな態度に見えることもある。けど、現実に法律の後ろ盾を得た台湾に重ねてみれば、清々しく前向きにも聞こえる。誰にも邪魔されず(邪魔されても屁とも思わず)各々の幸せを掴みに行く決意でもある。まだ課題はあるだろうけど、今は喜んでいいのだ、祝福してよいのだ。

 自身もゲイである友人の、今回の出来事に関する解説を聞いていて、改めて台湾における社会運動に対する人々の意識の高さと、同時に参加することへの一般市民にとってのハードルの低さを感じた。台湾の社会運動では複数のイシューを巻き込みながら活動を進んでいくことが多いという。台湾初のプライドパレードで先頭を歩いたのがLGBTの当事者ではなく、セックスワーカーの女性であったことがそれを象徴している。それぞれ一見ばらばらに見える問題にもどこかに重なりを見出すことができ、共感や理解しようとする意思が生まれて、「私のこと」としてかかわっていくことができる。

 そういえば「私のこと」で思い出したけど、初めて『ある鰐の手記』を読んだとき、「これは私の物語だ」という感覚が強く湧いたのだった。そこには性的指向に関係なく共感できるものがあって、すなわち、どれだけ愛しても愛しても(相手からも周囲からも)理解してもらえない孤独、みたいなものだったのかと。この話、本の訳者あとがきとかで垂水さんがおっしゃってたような気もするんだけど、、、

詩の原文ここから
---------------
「同性愛者」鴻鴻

彼らは言う自分たちは間違っておらず
あなたが間違っているのだと
彼らは言う想像上のあなたは間違っておらず
実際のあなたが間違っているのだと
彼らは言う自分たちの行く先は間違っておらず
行く先を探すあなたを手助けする人が間違っているのだと

彼らにとって好ましいものは みな信仰に仕立てられる
彼らにとって妬ましいものは みな誘惑と呼ばれる

あなたは言いたい
彼らは間違っていない
私も間違っていない
それが言い出せない

あなたは言いたい
愛することは間違いじゃない
愛さないことも間違いじゃない
彼らは違うと言う

彼らは違うと言う
違う違う違う違う違う違う違う

間違っているのは熱帯雨林、ウンピョウ、スマトラサイ
自由に生きながらも絶滅寸前の生き物すべて
間違っているのはサンタクロースのそりから
重荷に耐えられず逃げ出したトナカイ
間違っているのは人を愛して
ヘンタイ、キモイ、妖魔ニトリツカレテイルと言われる白娘娘(バイニャンニャン)※1
間違っているのは世界のあるべき姿

あなたは問いたい
文明はあるべき世界を変えるものか
それともあるべき世界を理解するものか
あなたは問いたい
紅豆(あずき)と緑豆こそが対になれるのか※2
それとも愛あってこそ対になれるのか
あなたは問いたい
信仰とはフィルター
針の孔
それとも一筋の虹
あなたは問いたい
まだ問いかけたい

けれど口を開く前に
彼らはあなたが間違っていると言った
ならば間違っていることにしよう
地球だってもともと傾いているのだし
でなければ四季も訪れない
私たちはこの過ちの地球で平静に、楽観的に生きようじゃないか
あの正しい人たちは
自らの想像上の地獄で生かしてやろう
彼らはそれを天国と呼ぶ
--------------- 

(訳注)
※1 中国の伝説『白蛇伝』の物語に登場する、人に化けた蛇の妖怪。また、女性的な話し方、仕草をする男性に対する差別的な形容表現「娘娘腔」とかけていると思われる。
※2 紅豆(あずき)と緑豆は男女のメタファー。美しく着飾った男女を意味する「紅男緑女」ということわざがあり、婚礼時に紅豆と緑豆を用意する風習がある。

No comments:

Post a Comment