Tuesday, 19 September 2017

植民地期台湾に生まれた「湾生」のおばあちゃんに話を聞く―歴史のかなしさ、おもしろさ

もう一ヵ月経ってしまったが、お盆の間、恋人氏の実家にお邪魔した際に、彼の母方のおばあちゃんに初めてお会いした。おばあちゃんは日本植民地期の台湾で1930年代に生まれ、その後12年間を新竹や台中で過ごした「湾生」の一人だ。以前からおばあちゃんが台湾に暮らしたことがあるということ、おばあちゃんの妹さんが台湾で生まれたということを恋人のお母さんづてに聞いていたのだが、直接会ってお話を聞くことができたのはこれが初めてだった。現在は老人養護施設に住まわれており、車椅子での生活を余儀なくされている様子ではあるけれども、はきはきとした様子でご自身の記憶について語ってくださった。その貴重なお話について、まとめておきたい。

おばあちゃんの話では1945年の終戦時に12歳であったとのことなので、おそらく生まれたのが1933年のことと考えられる。当時、父は台湾鉄道の駅員をしており、母もまた駅で切符を切る仕事をしていた。おばあちゃんは7人兄弟の4番目に生まれた。印象的だった記憶について尋ねると、当時住んでいた官舎が立派なもので、敷地の入口には門がわりに二本のパパイヤの木が立っており、玄関までの通り道に白い花が植えてあったという。おばあちゃんが生まれたのは新竹駅の隣にある駅だそう。現在だと北新竹駅、三姓橋駅が両隣にあたるけれど、当時はどのあたりだったのか、ちょっと調べてみないと分からない。

本島人との関わりはありましたか?という質問に対して、彼らのことは「生蕃」と呼んでいて、滅多に見ることはないが、生蕃の親子がときおり山から下りて来るのを好奇心で見に行ったりしたという。おばあちゃんの中で「本島人」というと、「生蕃」つまり原住民が真っ先に思い浮かぶらしい(実際は漢族系の住民も含めて本島人と呼んでいたはずなんだけど)。学校ではクラスに2、3人くらいいたというが、それは漢族系の住民のことか、原住民のことかは分からない。彼らとの関わりは薄かったか、記憶に乏しいようで、それ以上詳しい話は出てこない。

私は本島人の人が日本語で書いた小説を読んだことがあるんですよ、と話してみると、私もそういえば一つだけ、本島人の物語を覚えている、という。聞くと、本島の女の子が橋を渡ろうとするときに、氾濫する川に流されて亡くなってしまうという話だ。聞き覚えのある話、そうだ李香蘭が主演で映画化したやつじゃなかったかと思い後で調べてみるとビンゴ、1943年7月公開の『サヨンの鐘』だ。これは実話が元になっていて、1938年に村に赴任していた日本人巡査の出征を見送る際、荷物を運んでいたサヨンという女の子が橋で足を滑らして落ちて亡くなったという出来事。ざっくり言えば、これが愛国美談として語られるようになり、西條八十作詞・古賀政男作曲の歌謡曲にもなり、映画にまでなったという流れ。1938年というと、おばあちゃんは8歳前後だったと思われ、実際に起きた事故をリアルタイムで耳にしたり、その後も歌や映画を見聞きしたりした可能性が大いにある。そういう歌がありましたよねと言ってみると、そういえばあった、思い出せそうで思い出せない、と話してた。なんだか誘導尋問みたいになってしまって、インタビューの難しさを感じる。そうこうしているうちにおばあちゃんがある曲を思い出したといって鼻歌を口ずさんだ。曲名をたずねると「ホーリー…」なんちゃらとかで、もしやと思い「何日君再来ですか?」と漢字を見せてみるとこれだ!と。この曲は1937年、上海の歌手・周璇が歌ってヒットした流行歌。後にテレサテンも歌っていて日本でも比較的馴染みがある曲だと思う。なるほど、「サヨンの鐘」と言い「何日君再来」と言い、おばあちゃんの記憶に残る台湾での少女時代に、時期的にはぴったり重なるし、「何日君再来」に至っては中国大陸でヒットしたのが始まりだけれども、それが台湾でもよく聴かれていた、流行していたことを思わせるエピソードだ。

話が進むうちに、同席していたおばあちゃんのご家族、つまり私の恋人である孫とその弟くん、そしておばあちゃんにとっては娘にあたる恋人氏のお母さんも、こんな風に詳しい話は今まで聞けたことがなかったといって興味津々に。そして、そもそもなぜおばあちゃんの両親は台湾へ渡ったのだろう、という話に。

おばあちゃんによると、母親の叔母にあたる人が先に台湾の基隆にある呉服店で働いていたのだそう。母は九州小倉の出身で、自立志向というか外向き志向というか、田舎を出て働きたいという思いを持った人であったことから、叔母のつてを頼りにその呉服店に働きに出たのだそうな。後で調べてみるとこれまたおもしろく、実に基隆には「岸田呉服店」という呉服店が存在し、その建物の面影は今も残されている(フェイスブック関連ページ)。基隆で呉服屋というとここ一軒、つまりおばあちゃんの母、そして母の叔母が働いていたのはこの「岸田呉服店」とみてほぼ間違いない。おばあちゃんの話では、店では松坂屋の品物を扱っており、本島人を雇っていたが、買いに来るのは皆日本人であったとのこと。

一方の父親に関してはあまり詳しく聞けなかったのだが、鹿児島の加治木出身で、当時の「若者は外に出よう」という風潮の中で台湾にやってきたのだという。台湾鉄道で働き、その後、ちょうど呉服店をやめて切符のもぎりの仕事をしていたおばあちゃんの母親と出会い、結婚した。母は出産後に仕事をやめている。おばあちゃんによると、母親はすらっとして、はきはきした物言いの、忍耐強い人だったという。

そもそもおばあちゃんとお話するに至ったきっかけには、恋人のお母さんも驚きながら教えてくれた不思議な縁がある。おばあちゃんは1945年の8月15日の終戦を機に、その後多くの台湾に住んでいた日本人同様、引揚船に乗って日本へ引き揚げていくことになる。そのおばあちゃんを乗せた引揚船が到着した場所が、私の生まれ故郷の和歌山・田辺だったのだ。そのことについてもおばあちゃんに聞いてみたかった。

当初、おばあちゃんたちを乗せた引揚船は鹿児島の港に到着する予定だった。ところが、船内に胃腸の病気を患っている人がいて寄港できず、田辺まで移動することになったそうだ。確か田辺の引揚者回想記をまとめた資料の中にも似た話があったはずなので後で確認したいのだが、船内で感染症か何かが流行ったせいで寄港を拒否されて最終的に田辺港になったとか。鹿児島の港に着いていれば実家も近かっただろうに、おばあちゃんは田辺に降り立ち、幸か不幸か、そこから九州に行くまでの間、汽車の窓から空襲で焼け野原になった街や、原爆の被害を受けた広島を目にする機会を得た。田辺港では地元の人にあたたかく接してもらったとのこと。港に着いてもなかなか下船できないので、コーリャンで炊いたご飯がボートで運ばれてきて引揚船内でそれを食べたという。赤かったのでたぶんコーリャンだとのこと。赤飯?とも思ったけど、赤飯ではないと。確かに、食糧難だったろうし、赤飯なんてあるわけないよな。とりあえず、おばあちゃんたち一家は無事日本に辿り着いた。おばあちゃんにとっては、ある意味、未知の国であったはずだ。

引揚時の話で、印象深いエピソードがあった。当時、植民地台湾で使っていたお金は日本でも使えるという話を聞いた一家は、枕や布団といった布製品の裏にお札を隠し、引揚船の乗り場に向かった。しかし、乗り場には戦勝国となった中国国民党の軍隊がいて、船に乗る日本人の持ち物を厳しく検査していた。もし金品を隠し持っているのがバレれば、その人や家族だけでなく、同じタイミングで乗船する予定だったグループの人たち全員が後に回されることになり、その分、帰国が遅れてしまうのだった。銃剣を持ったいかめしい国民党軍につかまるのも怖いということで、おばあちゃんたちは泣く泣く、隠していたお金を海に捨てることにした。五十銭紙幣がひらひらと舞い、海に落ちていく光景を、おばあちゃんは悔しさと悲しさから、今もありありと思い出されて忘れられないのだと話した。

おばあちゃんにとっては、台湾での少女時代は基本的には楽しかった思い出として残っているようで、話を聞く限りでは、おそらく帰国後の生活が何よりも苦労の連続であったのだろう。九州に戻ってからもしばらくはいろいろな事情で家族が一緒に住めず、おばあちゃんは家計を助けるために山に魚を売りに行く行商の仕事をするなど、とにかく大変だったそうだ。父は国営野井倉開墾事業所で水田事業に関わったそう。おばあちゃんの話では、戦時中には朝鮮から人を集めて飛行場を作ろうとしていた場所で、戦後はそこに水田を作ろうとしていたのだという。九州農政局のサイトによると「昭和19年、戦況の悪化により野井台地に海軍飛行場が設置されることになり…」とあるのでこのことだろう。さすがに朝鮮から人を集めなどとまでは記載がないが、実際にあったとしてもおかしくなさそうだ。

さて、つらつらと書いてしまったが、今回おばあちゃんから聞けたお話は、だいたいこんな内容である。これまで台湾研究を多少は齧ってきた人間なので、本や何かで記録として、これらの歴史に触れることはあった。けれども今回、実際にその時代を生きてきた人から話を聞くことができて、非常に心がアツくなったし、歴史というものがふいに重力を帯びて目の前に立ち現れたかのように思えた。記憶を絞り出そうと目を細めながら少しずつ語ってくれるおばあちゃんの姿が印象的で、私はいつまででも話をしていたいと思ったのだけれど、おばあちゃんも今はそうお若くはなく、施設で暮らしていらっしゃるし、体力的にも、面会時間的にも限りがある。次に会えるのはいつになるか分からないけれども、また会いに行きたい。

最後にもう一つ!

話の中で、おばあちゃんは戦後、蒋介石がいたから台湾は大丈夫だった、みたいなことを言ってて興味深かった。大丈夫ってのはおそらく、毛沢東は中国大陸で文化大革命をやって悲惨な結果を出したから、台湾はそうならなくて良かった、って意味だと思うんだけど、その認識からは蒋介石と国民党政権の台湾支配がもたらした悲劇がすっかり抜け落ちている。二・二八事件、白色テロ…私自身は日本による植民地支配を美化するつもりはさらっさらないのだが、植民地期を生きた台湾の日本語世代からすれば、1945年以降の国民党政権下での悲しい記憶から、日本へのノスタルジーを抱き、植民地支配の美化をせずにいられない気持ちは否定できない。その一方で、台湾に生まれた日本にルーツをもつ「湾生」の一人であるおばあちゃんが、「台湾には蒋介石がいたからよかった」というような認識を持っていることになにか皮肉を感じてしまう。数年前、台湾でお会いする機会のあった白色テロの被害者でもある蔡焜霖さんのことを思い出す。また、二・二八記念館でずっと日本語ボランティアをされている簫錦文さんのことも。「日本はどうして我々を見捨てたのか」と問いかける彼らに対して、彼らと同世代の日本人はこれまで何も返事を返さなかったどころか、認識が完全にすれ違っていたのかと。

―「どうして日本は台湾を見捨てたのか?」
―「いや、台湾はよかったじゃない、蒋介石がいて」

戦後、日本人も生きるのに必死だった。分かる。分かりたい。そういうのを差し引いても、これじゃあなんだか悲しすぎやしませんか。おばあちゃんたちを責めたいわけでもなんでもない。じゃあどうするか。どうするかね。

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